2016年1月21日木曜日

心から心への言葉[02]従順

[2]従順 
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』 

神に従うのは、何と甘美なことでしょう。神に従うために、多くのものを失っても、私たちの心は喜びであふれます。神に従う道を歩いたことのない者は、この喜びを知らないし、理解することもできません。しかし、日々、この従順の道を歩む者は誰でも、損を益と思い、恥辱も誉れとみなすようになります。主に従順であれば、報償を得られます。その報奨とは、誠実に仕えるものは、次第に、自分を否定して、主に従うための、より大きな力を見出してゆくことです。主に逆らうものには、自分の意志に従うことに重きを置き、しだいに、反逆を強めてゆきます。これが実際に私たちの人生で起こります。主に従うほど、主はご自身を褒賞として与えてくださいます。私たちが従うとき、よろこびは苦難を通して増し加わります。本当に主を知っている信者も、従順に仕えることを通じて、さらによく知るようになります。

従順さには程度の差があります。絶対的に従うことは何と難しいことでしょう。しかし、それでも実に甘美なものです。すべての面で主に従うには、完全に自分に死ぬことが求められます。神の御心は、自分に死ぬことで達成されるからです。これ以上に、主に対する感謝を現す手段はありません。それでもなお、人の心には偽りがあり、信じる者の心も完全に捧げられていません。私たちは、自分がどこまでも従順であり、優しくへりくだって、主を愛していると思いこんでいますが、多くの場合には、不従順で、尻込みばかりする者であることに気付いていません。日々の生活の隅々で、自分には従順さが欠けていることを深く心に刻み、より多くの恵みを受けることができますように。 

人の心とはなんと偽りに満ちているものでしょう!心は、自分がおおむね従順であったと言って満足します。しかし、従順でなかったことについては、こう考えます、『そんなに細かいところまで全て従えなくても、仕方がない』、とか、『だからと言って落ち込むこともないさ』、とか、『あれだけやれば十分ではないかな?』といった具合で、このような言葉を、逃げ口上として使います。主がその人たちを導き、こんな言葉の後ろには、不従順な心が潜んでいることに気付かせてくれますように。人は、何かに従ったあとはいつも、神が求める従順さを完璧に満たしたように思い込みますが、従わなかった物事に対しては、あれはどちらでもよかったとか、必要なかったとさえ、考えようとします。これは、不思議なことではありませんか?本当に主の心を知っていれば、そのような考え方は出てこないはずです。はじめに損得の勘定をしないで、十字架を負うのは何と難しいことでしょう。

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