2019年11月20日水曜日

経験の大切さと価値(T. オースティン-スパークス)

経験の大切さと価値

T. オースティン-スパークス

『そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み,出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』(ローマ五・三~五)

苦難を通して得られる経験


『忍耐が練られた品性を生み出す。』

ここで、『練られた品性』とされていることばは、聖書の版によってさまざまな訳があり――欽定訳聖書では、『経験(experience)』、改訂欽定訳では、『試練(probation)』、アメリカ改訂訳では、『承認(approvedness)』――ここから、豊かな言葉、大きな意味と内容を持つ単語であることが分かります。これは実際に、試みの結果として承認を受けることを意味しています。そして、私が、欽定訳の『経験』が、もっともよい訳だと思うのは、同じ語源から、『実験(experiment)』――試みとその結果――と言う単語が派生しているからです。ここにこそ、このことばの本質があります。『患難が忍耐(がまん強さでもいいでしょう)を生み出』し、そして、『忍耐(がまん強さ)が経験』を生み出すのです。


新約聖書においては、必ずしもそうはっきり記述されていなくても、経験こそ、神の働きの中で非常に高い位置を占めており、神の目には、とても大切で大きな価値を持つものです。経験こそが、人の偉大さ、成熟度の質であり、核心なのです。私たちの時代、あらゆる分野で、傑出した指導者、集団の中で抜きん出た力があると認められる指導者がいないことは、実におそろしいことです。そうではない時代もありました。政治的な闘争や手腕の面で、芸術、文学、音楽の面で、大きな名前が残っていますが、そのほとんどは過去の世代の人たちです。今、私たちの中にそのような人はおらず、指導者、抜きん出た人、頼れる人が欠けていることが深刻な問題となっています。主は、経験を非常に重要視され、経験に代わるものは何もないこと、そして、主ご自身が民に経験を与えるために、非常に大きく深刻ないのちの危険を冒す覚悟でおられることを示されています。

時に、主は私たちを使って何かを実験をしているかのように思えることもあります。そのような言い方が適切がどうかはともかく、私が言おうとしていることは確かです。そこに大きな意味と価値があるので、主は私たちを、もっとも深刻な結果が生じ得る状況へと追い込もうとしておられるのですが、これは、ただひとつ、経験というものを得させるためであり、主にとっての有用性と価値はこの経験を中心としているからです。

経験は人に譲り渡せない


神との経験は、知識よりもずっと大きなものです。多くのことを教えられ、大きな知識を得ても、経験が欠けていれば、私たちの知識も単なる専門的な情報にとどまってしまいます。経験は知識を上回るものです。それはまた、人間の賢さをはるかに凌駕します。利口な人たちは、たくさんのことができ、成功を収めるように見えるかもしれません。そこで、良質な経験が欠けていれば、そこには身体がないので、遅かれ早かれ、彼らの骨組みは崩れ去ってしまうことになるでしょう。経験とは、人からもらい受けることができないし、また、誰から誰であろうと、譲り渡すこともできないものです。それは、買うしかありません。したがって、経験とは、それを持っている人だけの所有物であり、財産です。経験はきわめて個人的な物でなのです。御父も御子、主イエス様を、ご自身で定め、決断された目的へと、他のかたちで導くことができたなら、必ずそのようにされていたでしょう。ただひとつの道は、経験だったのです。『・・・・(キリストは)、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び』ました(ヘブル五・八)。主は、『多くの苦しみを通して全うされ』ました(ヘブル二・十)。イエス・キリストでさえ(そして、ある意味をこめて語りますが)、自分で経験を買わなければならなかったのです。主が、目的の完遂、完全さに達して、完成されて、欠けたところのないものされるためには、経験と言う道の他にはなかったのです。

聖霊は、忍耐、素養、指導、力強さなど多くのものをを霊の賜物として与えてくれますが、聖霊自体が経験の代わりとはなりません。私たちは、気がつけば、本来なら聖霊が行うはずのないことを、聖霊が自分のためにしてくれるようにと願っていることがよくあります。御霊がすることは、私たちを経験へと導くことです。これが、御霊が私たちの祈りに答えるただひとつの道です。多くの祈りは経験を通して答えられます。主に何かをしてくださいとお願いすると、主は経験を通してあなたを導き、あなたは答えへとたどり着きます。もちろん、それがあなたが望んでいたことではなく、あなたが願ったのは、主がそのとき、そこで、贈り物として、行動として、そのことを実行してくださることでした。しかし、それは、ただ客観的に外から与えられた出来事としかなりません。御霊は、それをあなた自身の一部とすることを望んでおり、だからこそ、祈りに対して、何らかの経験によって答えるのです。『忍耐が経験を生み出す』のであり、そして、経験がなければ、誰が、何を与えてくれようとも、なんの役に立つでしょう?

こうなりますと、経験は、艱難から逃れることより、ずっと大切なものということになります。『艱難が経験を生み出す』からです。ああ、私たちは、なぜ、主はこれや、あれが起こることを許されたのか、なぜ、このこと、あのことをしてくださらなかったのかと、問い質したことがどれだけあったでしょう。主はなぜ、アダムが罪を犯すことをやめさせなかったのでしょう?なぜ、主は、世に対して、恐ろしい悲劇を引き起こした多くのことを止めてくれなかったのでしょうか?経験ということばが、大きな答えとなります。

奉仕の質の高さを経験する


経験が非常に大切なのは、結局のところ、経験こそが、奉仕の質を決めるからです。現実の生活に戻り、本当に大きな出来事に直面して、その問題があまりに恐ろしい事態につながってゆくとき、私たちが求めるのは情報ではなく、欲しいのは経験であり、経験が助けとなる方向へと向かってゆきます。そうではありませんか?すなわち、経験こそが、主に対する奉仕の質と、主にとっての自分の価値の本質となってゆきます。

バニヤンは、寓話の中で、『経験者』と呼ばれる人物を登場させています。『愉快が岳』に住まう四人の羊飼い、『知識者』、『経験者』、『用心者』、『誠実者』の一人です(訳注、バニヤン、『天路歴程、正篇』、池谷敏雄訳、新教出版社、215ページより)――もちろん、彼らは全員でひとつのはたらきを成しており、別々のものとみなすべきではありません。知識と言うものは、経験の手の中にある、あるいは、経験とともにあれば、何の問題もなく、知識の価値を軽視べき理由はありません。しかし、それは、経験から来る知識でなければならず、経験と常にひとつになったものでなければなりません。そして、羊飼いとしてのこの『経験者』について、バニヤンは何と言っているでしょう?四人の羊飼いがいる国を訪れた旅人はこう描写しています、『がっちりした体つきと顔立ち、鋭いが優しそうな目、その振る舞いには進んで行動する気持ちが現れており、苦労して得たたくさんの知恵が、働きと支配の力として、明らかに彼の中で動いている。』これは、経験の実に良い定義です、『働きと支配を行う能力』、『苦労して得た知恵。』彼は羊飼いだったのですが、聖書における羊飼いの捕らえ方は、私たちの考えとは違うことはよく知られています。私たちの世界では、羊飼いとは羊を探しに出かけて、彼らをひとところに集め、犬やほかの手段を用いて、羊をまとめます。シリアの羊飼いは、どこかに立って、詩篇をうたい始めれば、羊たちはその声を知っていて、そのもとに集まり、彼は祈りを捧げたり、詩篇をうたうだけで、羊をどこへでも移動させることができました。羊たちは彼の声を知っていて、その後をついていったのです。今でもその通り、指導者の役割とは羊飼いとしての役割であり、羊飼いであることは指導者であることを意味します。しかし、経験者は羊飼いなのですから、経験者であることは指導者でもあるということになります。

もちろん、これは、私たちが、主や他の人々にとって、誰よりも価値ある者となることを願っているか、あるいは、自分を中心としているかによって、全く違ってきます。もし、私たちが、このような願いを持っていれば、この経験という問題が大きな意味を持つでしょうが、そうでなければ、私が言っていることなど役に立ちません。しかし、実際には、主は、ご自身にとって役に立つ者であることに重きを置かれます。また、私たちがそのことを重視しているか、常に私たちの心の中にあるかどうかに関わらず、主が積極的にこの働きに取り組んでおられるという事実から、私たちは逃げることはできません。主は、私たちを役に立つものに変えようとしています。経験、困難と辛い人生へと神が私たちを導き、言わば、私たちのためにおそろしい危険を冒してくださる、その理由と目的とは何なのでしょうか?神は実際に、ご自身が危険をあえて冒しているように思えます。神は、私たちがご自身に反逆する危険を冒し、私たちの恨みを買う危険を冒し、自分を誤解される危険を冒し、私たちが、『反抗して言うことをきかなくなり』、道から外れて、逃げだす危険を冒します。私たちを困難な状況に置かれるとき、主も危険を冒しているのですが、主は、それを経験を得るために価値があると考えています。私たちが間違った反応をしてもなお、長い目で見れば経験となるからです。私たちの反逆や敵意でさえも、主は権威を持って支配されており、私たちもいずれは、その中で何かを学んでいることに気付きます。私たちは、助けをを探し求めている人たちに、手を貸し、教え、導くようになります。そう、主は、たくさんのことを、経験を得させるため、私たちを職業的な牧師ではなく、羊飼いである人間とするため、すなわち、『がっちりした体つきと顔立ち』でありながら、『鋭いが優しそうな目』、何でもしようと言う覚悟があり、『苦労して得たたくさんの知恵』を持つものに変えるため、私たちを必要な者たちの助けとするために行われています。これこそ主が私たちに行っていること、すなわち、経験をもたらすことです。

理論ではなく、実践として経験する


つまり、経験とは実践的であるものすべての総括と言えます。それは、自分が行うものであり、実験的であり、知識の実用的な側面であると言えます。これは、言うまでもないほど明白なことです。患難とは、非常に実践的、現実的であり、それから逃げることはできません。患難の中で忍耐が求められることは、まさしく現実であり、理論ではありません。そして、もし、患難の目的が、そこでがまん強さを働かせて、忍耐と経験を得ることであれば、それは非常に良いことです。私たちには欠けているものが他にたくさんあり、私たちには、この世界で重視される大きな知識も学問も能力も賢明さもないかもしれません。この世的な能力の基準で試される場面で、『私は経験だけはあります』としか言えなければ、相手に認められることはないでしょう。彼らは言います、『君は何を専攻した?どんな資格を持っている?』何かの経験を経てきたというだけでは足りませんが、経験はなくても、他の全てを持っていれば、この世界では受け入れます。しかし、神は違います。そこで行われる試験は、全く別の基準に基づいています。私たちは、多くを持っていないかもしれない、大した者ではないかもしれないし、どんな教育を受けてきたか、どんな肩書きを持っているか、どんな学位を持っているかと言ったことでは蔑まれるべき者かもしれません――その世界で私たちは大したものではなくても、忘れないでください、神は他の何よりもはるかに経験を重要視されるのであり、私たちが持てるのは経験だけなのです。もっとも小さなものから、もっとも大きなものまで、私たちは誰でも経験を持つことができますし、主の目にはそれは非常に大切なものなので、主は私たちが多くの苦難を知ることこそ意義があると考えるのです。『患難が経験を生み出す』のです。

あなたは、『患難』(英語で「tribulation」)と訳されている単語の意味を完全に理解していますか?『tribulation』とは、ギリシャ語の絵文字――現代では馬鍬(harrow)と呼ばれる農耕具のかたちを表しています。ひどく辛い(harrowing)経験を受けたと言う表現が何を意味するか、ご存知だと思います。ああ、馬鍬で引きちぎり、切り取り、切り裂くということ!これこそがこの言葉に文字通り、実際に込められた意味です。私たちの背中の上を通る馬鍬が、経験を与えてくれます。経験とはそれだけの価値があるものです。

永遠の価値を持つ経験


経験について、永遠の価値を持つべきものであるという以外、何を言えるでしょう?その価値は永遠でなければならず、そうでなければ、人生とは説明できない謎、不可解でしかありません。若い人たちにも、深い経験を通され、経験を得るために高い代償を払って、大きな価値のあるものを手に入れたのに、気が付けば、もっと若い人たちは、同じ経験を望んでいないどころか、考えようともせず、あなたの助言すら求めていない、そんなときが来るかもしれません。あなたが深い経験を通して得たものが、この世ではごく狭い出口しかなく、うまく表現することもできないとは、何という大きな謎でしょうか!あなたが経験してきた多くのこと、多くの代価を払って買ってきたものに、どれだけの価値があるのでしょう?それは永遠なはずです。神は間違いなく、この貧しい人生よりも、はるかに長い時間をかけて、何かを得させてくれます。歳を取るほどに、患難も増し加っていくのは、何のためなのでしょう?そうですね、神は、長い視野を持って働いておられ、そして、神にとっては、時間を超えた価値のある何かがあって、そのために、神は患難が忍耐を、忍耐が経験を生み出すことをお許しになるのです。『知識ならばすたれます』、しかし、経験は、いつまでも残り、永遠の時を超えて仕えるものです。

初出、『A Witness and A Testimony』誌、1951年7~8月、29巻4号

The Importance and Value of Experience

by T. Austin-Sparks

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