T・オースティン-スパークス著
The School of Christ by T. Austin-Sparks
第六章 開かれた天
私たちは、これまでの瞑想の中で、キリストの学校にいることの意味を考えるように導かれてきました。この学校では、すべての学び、すべての指導、すべての訓練が、キリストを知ること、キリストを学ぶこと、キリストについて学ぶのではなく、キリストを学ぶことに向けられています。ものごとを平易、かつ、明確にしようとするときに、これはもっとも難しい点です。私たちは、キリストに関する多くのことがらを教義、教えとして取り上げることはできますが、それは私たちが求めていることではありません。それは、主が求めているものとは全く違います。求められているのはキリストご自身です。キリストご自身が、すべての真理、すべてのいのちの生きた個人的な具現化、人格化であって、主の私たちに対する目的と願いは、さまざまな側面から見た真理を知るようになることではなく、ある一人のお方、そのお方の生きた人格を、生きたかたちで知ることであり、また、その人格が私たちに伝えられ、私たちがその人格へと組み込まれることによって、すべての真理が、単なる理論的、方法論的な真理ではなく、生きた真理となることにあります。