2025年11月6日木曜日

オースティン-スパークス、『天上に招き給う召し――第一巻』、第一章

天上に招き給う召し――第一巻
The On-High Calling - Volume 1
セオドア・オースティン-スパークス著

第一章 仲間たちの目的
Chapter 1 - The Purpose of Companions

『そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。』(ヘブル3:1)
"Wherefore, holy brethren, partakers of a heavenly calling" (Hebrews 3:1). 

『もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。』(ヘブル3:14)
"For we are become partakers of Christ, if we hold fast the beginning of our confidence firm unto the end" (Hebrews 3:14). 

はじめに、これから語る講話の中に繰り返し出てくるある単語について考えてみます。上で引用した二つの節に現れる、『あずかる者(partaker)』ということばです。こう翻訳されたギリシャ語のことばは、ヘブル人への手紙に五回ほど使われています。1章9節、3章1節、14節、6章4節、12章8節です。ルカの5章7節では、この言葉は、『仲間の者たち(partner)』と訳されており、ほかの訳語としては、『仲間(fellow)』、『供の者たち(companions)』などがあります。他にも、同じ語源、言語から派生した別の訳語があります。

原語の意味を注意深く調べた結果、私は、そのもっとも真実で深い意味は、「仲間たち(companions)」であるという結論に至りました。ですから、私は、これからこの手紙を読みながら考える多くの事実を、この言葉が説明し、方向付けてくれるものと信じています。すなわち、「キリストの仲間たち」、「天の召しを受けた仲間たち」です。

この「仲間たち」という考え方は、聖書全体を貫くものであり、神が、人間について、また、ご自身と人間の関わりついて抱かれる究極の御心です。主との関わりにおいては、制度的なものの背後には、必ず個人的な要素があります。アブラハムのことを考えてみましょう!アブラハムは主の偉大なしもべであり、非常に忠実に主に仕えました。しかし、アブラハムについて、もっとも深遠な事実は、彼が神の友であったということです。神はアブラハムのことを「わたしの友」(イザヤ41:8)と言われました。ここには、「神の仲間の者」という考えが含まれています。

モーセは主の偉大なしもべであり、そして、主はよく彼のことを「わたしのしもべであるモーセ」と語られました。しかし、そこには、もっと深いつながりも確実にありました――『主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた(出エジプト記33:11)。』神とモーセのあいだ、モーセと神のあいだには、非常に親密な関係がありました。実際に、モーセは「主の仲間」だったのです。

ダビデはどうでしょうか?彼についていろいろなことが言われていますが、もっとも大切なのは、神が、彼は『わたしの心にかなった者』(使徒13:22)であると言われたことです。これこそ、主の仲間であることの意味です。

主イエス様がこの地上に来られた時、主は仲間という基準で弟子や使徒たちを選ばれました。彼らを「弟子」と呼ぶことはできます――キリストの学校に入って、教えらればならなかった人たちだからです。「使徒」と呼ぶこともできます――主によって送り出されることになった者たちだからです。しかし、彼らと主との関係においてもっとも深いのは、彼らが主の仲間たちであったということです。彼らの時代が終わる頃、主は言われました、『あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです(ルカ22:28)。』主にとって彼らは、人生の仲間であり、苦難をともにした仲間でした。主は言われました、『あなたがたはわたしの友です(ヨハネ 15:14)。』

私たちが足を運ぶ主の教会は、単なる公的で制度化された教会組織ではありません。そのような組織は、とても冷たく、形式的で遠い存在です。しかし、主がご自身の教会について語られるときは、常に愛という面から語られます、『神がご自身の血をもって買い取られた神の教会』(使徒20:28)――『キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた』(エペソ5:25)。私たちは、このような教会の姿を、あらためて思い起こす必要があるのかもしれません。教会は、『キリストの仲間』となるべく召されています。教会の主とのもっとも深い関係とは心の関係――生活の中、働きの中、苦しみの中、そして、栄光の中で、キリストの仲間となることに尽きます。

仲間たちという考え方について一言、述べたところで、次は、この仲間たちの目的について考えてみましょう。聖書はただひとつの目的を持った書物であり、その目的は、聖書のすべての段落と聖句の背後に隠されています。創造の背後、神の予知の背後、選びの背後、神が選んだ人物の背後、聖書を通して行われる神のすべての動きの背後、多くの例示と型の背後、そして、旧約聖書の三つの主要な部分――祭司の働きの部分、それに続く王たちの部分、それから、次に来る預言者の部分――の背後に、その目的は隠されています。旧約聖書はこの三つの部分から成っており、そして、神のただひとつの目的が、旧約聖書にあるすべてのものの背後に置かれています。神は、聖書の中で、目的の神として表されており、そして、主の主権で行われるすべての働きは、このただひとつの目的のために行われています。

聖書の各部分に、また、全体を通して貫かれるこのひとつの目的とは何でしょうか?それは神の御子を中心としています。万物において、神の目は御子だけに注がれていました。「万物」とは非常に包括的な言葉ですが、すべては神の御子の中に包み込まれています。これからこのヘブル人への手紙を、じっくり読んで行くにあたって、冒頭にあるこの非常に重要な要素に注意してください。

最初の重大な命題は、古い時代における神の働きと手段に関わるものです。過去の時代には、神は、あの手段、この手段を使って、さまざまなやり方によって働かれましたが、この終わりの時代に来て、神は御子の中にすべてを集中させました。神はすべてのものをひとつに集めて、御子の中に注ぎこみます。御子の中に、旧約聖書全体と、旧約聖書におけるすべての神の道が包み込まれています。この事実を強調するために、この手紙は最初の二章を通して、神の御子の偉大さが誰の目にも分かるようにしています。はじめの章で、神の子について語られているすばらしい真実は、皆さんもご存知の通りです。このお方こそ、他のすべての者の上に立ち、その中に、神の思いのすべてが包み込まれているお方です。

ですから、御子に対する神の御心は、手紙の初めで私たちの前に提示され、その箇所で、神の目的がすべて御子を中心としていることが宣言されています。その御子とは現在、イエス・キリストと呼ばれているお方です。しかし、ここで重要な点は、次のことです。御子を紹介し、人々の前に御子を表し、そして、大いなる御子の姿を知らしめた後で、聖霊は、手紙の書き手を通してこのように続けます(ここで章を区切るべきではありません)「それゆえ――このため、この理由で、御子に関する神の目的のため、他のすべてのこと、他の何にも勝る御子の限りない偉大さのために―― 聖なる兄弟たちよ、あなたがたは、神の子との交わり、そして、神の子の天への召しに携わるように召されているのです。」

このことから、そのまま第三の点につながります。聖書全体を通じて現れる神の目的に関わる原則が二つあります。ひとつ目は、今、指摘したものです、すなわち、神は、常に例外なく、ご自分の目的だけに従って働かれます。神について使徒パウロが述べているように、『(神は)みこころによりご計画のままをみな実現される(エペソ1章11節)』のであり、そして、それは御子を中心として実現されるのです。すなわち、神はいつも、例外なく、御子との関わりに立って働かれます。

聖書には、とても数え切れないほど多くの事柄が含まれています。聖書には、なんという膨大な量の真実が記録されていることでしょう!神が造られたものや神が用いられたもの。また、神がその上に手を置かれた人物は、どれだけあるのでしょう!数えきれないほどたくさんの人がいました。そして、神がご自身の目的を実現するために進まれた道は、なんと多いことでしょう!神が取られる手段は、きわめて多岐にわたります。神が用いられた多くの手段――聖書は、まさにそれが集まったものです。それから、私たちには神様の祝福があります。神が、人々を祝福し、物事を祝福される場面は、非常に多く見られます。一方で、神の裁きもあります。神は、裁きの神であり、聖書にはたくさんの裁きが描かれています。しかし、このように多くを語った後も(そして、もちろん、私たちはそのすべてを本当に理解することなどできません――この書物は、私たちにとっていつも、あまりにも大きすぎるものです!)、そこに描かれた出来事、人、使われた手段、祝福や裁き、どれをとっても、ひとつだけ独立しているものはありません。もし、神が創造の神であるなら、神が誰かを選ぶなら、神が何かを使うなら、神が祝福し、裁くなら、神はいつも明白な目的を持ってそうされるのです。神は、御子のために万物を創造されました。これは聖書に明白に記述されている真実です。主は、御子を念頭に置いて、これらの人々を捕えられました。アブラハムに対してもそうでしたし、アブラハムを通して、私たちは、『人間的な標準で』神の御子と出会うのです。

さて、ここでは、次のような表現にとどめておきましょう。神が何ごとかを祝福したのなら、それはそのことが御子の目的にかなっていたからです。私たちが主の祝福を望むなら、主イエスとともに歩んで、自分の全てを主に捧げなければなりません。御父は、主イエスと切り離して私たちを見ることは決してなく、神の祝福が見つかるとすれば、それは必ず御子の中にあります。聖書が神の裁きについて、何かを語っているとすれば――実際に、神の裁きについて預言者たちは、どれほど多くのことを語っていることでしょう!――それは、そこで行われたことが、御子に関わる神のご計画に反していたからです。神は常に、ただ一つの対象に目を向けており、その対象とは御子です。神は、何も無駄にはしません。神は、小さなひとつひとつの事柄そのものに関心を持たれているのではありません。その小さな事柄が、御子に関わりを持つときに、その小さなことが、神にとって、とても大きなことになります。あなたは取るに足りない人間でしょうか?どうでもいい人間ですか?御子と密接につながっているなら、神はあなたをとても大切な人と見なされます。しかし、それはあなた自身の価値ではなく、私の価値でもありません。それは御子が持つ価値です。

これは、まじめに働いていた学校の先生に当てはまることです。私たちは皆、学校に通っていたし、学校には先生がいましたが、学生時代には、誰もが先生たちとうまくやっていきたいと思っていたでしょう。先生たちと仲良く過ごしたかったから、また、先生がしてくれることは、すべて受け取りたかったからこそ、先生たちによろこんでもらおうとしていました。しかし、教師たちについての記憶を手繰るとこう思えてきます。先生たちは、私のことを大切に思ってはいなかった。私のことで、彼らにとって重要だったのは、自分たちの目的をいかに実現するかということだけでした。彼らには、試験に合格して、最高の成績を収め、優秀な学者になるような人が必要だったのであり、彼らが考えることはすべてこの目的の達成につながっていたのです。先生たちが私にとても親切にしてくれることがあって、そんなとき、私は、「自分はとてもいい子なんだな!」と思いました。これとは逆に、学校の先生たちが本当はどう判断しているか、気づくこともありました!これは、彼らが私個人を好きだったとか、嫌いだったということではありません。先生たちにとって大切だったのは、試験がやってくる終わりの時期であり、それは、私に関するすべてが、試験の成績というただ一つの基準のもとに照らして判定される時でした。

私たちは、神を学校の先生と並べてみたいのではありませんが、そこにある原理は同じです。神は、御子の光の中で私たちを見ています。「あの男、あの女は、御子についてのわたしの思いにどう答えるだろうか?あの男、あの女の中に御子はどれほどいるだろうか?」神がこの土台に立ってどう働かれるか、それは後で見ることにしますが、これは神の目的のひとつ目の原則であることに注意してください。それが第二の原則へとつながります。

神は目的を持った神であり、常にその目的を果たすために働き、いつも働き続け、何が起ころうとも、目的をもって進み、ご自身の絶対的な支配を土台として働かれ、何者も主を妨げることはできず、主は目的を必ず達成されます。これこそ、主が黙示録をお与えになった理由です。終末を迎える前に、主は、ご自身の目的がどのようなものになるか、私たちに教えてくださったのです。主のご目的は必ず実現されます。その中でも、主はもうひとつの原則を守っています――すなわち、主はいつも、人間を責任を負った立場に置かれます。主が、人間を責任から解放することは決してありません。なぜでしょうか?なぜなら、御子の中に置かれた神の目的は、人間において、すなわち、その内側にキリストが満ちあふれる大いなる集団としての人間において実現されるからです。キリストはご自身で神の目的を実現するのではありません。主は、一人だけの孤立した存在として栄光を受けることはありません。ここで、この聖句に戻ります、『天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち・・・・しっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者(companions)となる』のです。

パウロは、教会とは、『いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ』(エペソ1:23)であると言っています。すなわち、人間の上には、責任が課せられており、聖書の中でヘブル人への手紙ほど、この事実を強調している書はありません。このことから考えると、この手紙は聖書の中でもっとも恐ろしい手紙のひとつです。一面では、もっとも輝かしいものでありながら、別の面では、もっとも恐ろしいものです。そのことは、これから先、もっと詳しく見ていくことにしましょう。

ここで、もう一つ別に、私たちが心をとめるべき、非常に大切な事実があり、それも、この書簡の中に出てきます。実際、その大切なことは、これからの日々、私たちが下すあらゆる判断を左右するものとなるはずです。神がご自分の目的を果たすために、ある器を取り上げ――その器は個人かもしれないし、イスラエルのような、あるいは、聖書で神が用いた男たちのような一団かもしれない――その器が神の御心に応えないなら、神はその器を打ち捨てて、別の器を探します。神は、その代わりをさせるために、他の者たちを召されます。

その最大の例は、イスラエルに見られます。神様は、それを通して御子を表す器となるべく、イスラエルを選ばれました。イスラエルは、御子とつながるため、また、御子における神の目的を実現するための器として、神に召され、選ばれました。そのイスラエルは神の御子に何をしたでしょうか?御子を拒んだとき、彼らは神の御心を拒んだのであり、そのため、神はイスラエルを退け、二度と省みなかったのです。イエスは言われました、『神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます』(マタイ21:43)。

これこそが、ヘブル人への手紙に込められた真実であることを、これから見ていきます。もはや、誰もイスラエルについて、「彼らはキリストの仲間である」と言うことはできなくなりました。イスラエルは、かつては神の仲間でしたが、この神の仲間は神に見限られたのです。

このことが、主イエス様がユダを十二弟子のうちの一人と召されたという事実に、光を当ててくれます!ユダは、仲間となるべく召された十二人の一人であったのに、主を裏切りました。イスラエルもまた、神とキリストの仲間となるべく召されましたが、イスラエルは神の子を裏切りました――この仲間は排除され、拒絶されましたが、その一方で、神は目的の実現を進めるため、イスラエルの代わりになる他の者たちを招き入れました。

このことが、ヘブル人への手紙のすばらしさを説明しています。これは、イエス・キリストが立つ場所と偉大さについての手紙です。この手紙には、まず、キリストの仲間となるべく召されることのすばらしさが語られ、次に、仲間として召された者が主の救いを裏切ることの恐ろしさを明らかにしています。そこには、こう書かれています、『私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう』(へブル2:3)。この「こんなにすばらしい救い」という言葉を理解するためには、キリストの仲間となるとはどういう意味かを理解しなければなりません。イエス・キリストの仲間であることよりも大きなことなどあるでしょうか?主とは誰であるかを思い、そして、神がイエス・キリストの中に意図されたすべてのことを思うとき――そして、あなたと私がその神の子の仲間となるように召されていることを考えるとき!それは、実に偉大な救いです!それこそが、「こんなにすばらしい救い」です。

ここまで、この「仲間」という単語をめぐって時間をかけてお話ししてきました。新約聖書は、この一語、そして、キリストの仲間という一つの考え方を中心に組み立てられています。そこには、キリストが最初にご自身の仲間たちを選び、そして、言葉と行いによって彼らを教える姿が描かれています。それから、主が彼らを試し、ふるいにかけるところが見られます。彼らは本当の仲間だろうか?それとも、主から何かを得る目的で、キリストと関わりになっているだけだろうか?たくさんの仲間を持つことができるのは、あなたがその相手にすべてを与え、彼らの側も、あなたからから望むものをすべて得られるときです。しかし、彼らに苦しみしか与えられなかったらどうでしょうか?そして、迫害とか、彼らの自然な願いに反するものしか与えられなかったらどうでしょう?あなたが彼らに提供できるのは、御父の家の居場所だけです!このようにして、主は彼らをふるい分け、主は彼らを試されたのであり、何度かにわたってこのように記されています、『・・・・弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった』(ヨハネ6:66)。真の仲間であるかどうかは、逆境の中でこそ明らかになり、ふるい分けられるものです。ですから、もしあなたがキリストとのつながりの中で、あり得ないほどの試練や苦しみを受けているとしたら、思い出してください、キリストは私たちを、ご自身のもっとも親しい仲間として迎え入れ、栄光の中だけではなく、苦しみの中でも、ご自身の交わりの中に入れたいと求めておられます。

すなわち、キリストとの関わりは、交わりを基礎として行われるものです。それは、人生の中で、目的の中で、経験の中で、訓練の中で、死と埋葬と復活の中で、油注ぎにおいてひとつになること、そして、最後に、天の栄光の中で主とひとつになることです。

イエス様が、この摂理に従って、霊的なかたちで繰り返してご自分をあらわしておられることを私たちは理解しなければいけません。使徒言行録を、ルカは次の言葉で書き始めました、『イエスが行ない始め、教え始められたすべてのこと』(使徒1:1)。ここに込められた意味は、「私は、主が今も行い続け、教え続けていることを書きます。すべて同じイエス様です。主は同じ働き、同じことをしています――しかし、そこには違いがあります。かつては、地上で実際に起こった出来事として示されていました。今、その出来事の意味が、霊的なかたちで提示されます。当時、実際に起こった出来事の中にあった教えが、今は、主が私たちに行われる霊的な働きの中にあるのです。主は、実際に見えなかった盲人の眼を開きましたね?今、主は、霊的に盲目な眼を開いておられるのであり、その方がずっと重要なことです。」

この同じイエス様が、今、あなたに対して、私に対して、同じ目的を持った働きを続けています。主は、地上で送られた生活を、霊的なかたちで再現されています。今では、主は行いよりも、目的に基づいて働かれています。

なぜ、こんなふうに言うのでしょうか?そう、子供の頃、よく讃美歌で歌いましたね(大人になってからも、同じように感じることが多いと思います!)。

『私は思う、昔の甘い物語を読むとき、
イエス様が地上で、人間たちといたとき、
小さな子供たちを、羊のように小屋に召された、
私も、その時、その中にいたかったと!』

あの時代、この地上で、イエス様と一緒に生きたかったと、あなたは思いますか?それは、あなたが考える最良のことですか?今のあなたには、それよりもずっと良いものがあると言わせてください!その同じイエス様が私たちと共にいてくださるわけですが、ああ!今の主は、当時、おられた土台よりも、ずっとすばらしい土台の上に立っているのです。そして、私たちは今、キリストの仲間、天の召しを受けた仲間となるべく召されています。今の主の私たちとの関わりは、それが霊的で永遠であるがゆえに、いっそう本質的なものなのでしょう。主が地上におられたときの人との関わりは、肉体的なものに過ぎず、また、一時的なものでした。この世を生きていく中で、人々の体を気遣い、助けることは良いことですが、それよりもはるかに大切なことがあります。それがこの天からの召しであり、それは永遠の召しであって、終わりの時が来ても、この人生だけで終わる仕事として消えることはありません――『そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。・・・・・しっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。』

上でお話ししたことは、すべて土台を据える第一歩にすぎません。主の助けによって、私たちは。これからその土台の上に築き上げていきます。

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