2026年2月2日月曜日

オースティン-スパークス、『天上に招き給う召し――第一巻』、第三章

天上に招き給う召し――第一巻
The On-High Calling - Volume 1
セオドア・オースティン-スパークス著

第三章 主の晩餐と仲間たち
Chapter 3 - The Lord's Table and the Companions 

引用聖句:出エジプト記12章1~16節、21~24節。ルカ22章1、7、8、14~21節。

これまで、天の召しを受けた仲間たち(companions)の生き方に対して、主が求めておられるものを見てきました。また、そのこととの関わりで、古い時代のイスラエルが主の期待を裏切ったこと、そして、彼らの裏切りが明らかになった時、イスラエルが生まれる前から、主が願ってきたものが何だったかが明らかになったことを学びました――それは、天のいのちと霊的な性質を持つ民です。


主の晩餐は、おそらく、キリストの仲間であるというこのすばらしい事実を、何よりも美しく表現するものと言えるでしょう。

ユダは出て行きました。ユダは、主を拒絶するイスラエルの側に立って、裁きの場で彼らの一人に加えられたのであり、かくして、その夜、一人の男ではなく、イスラエルの全国民が外に出て行ったのです。ユダは、キリストを拒絶して、神に拒絶された国民の代表に過ぎませんでした。主を拒絶するイスラエルの代表者が、キリストの仲間たちの交わりのただ中にいたことは、実におどろくべきことではないでしょうか!そして、そのキリストを囲む輪の中にあって、ユダはイスラエルがどうなるのかを明示していました――彼はキリストの仲間ではなくなったのです。

こうして、主を拒むイスラエルが出て行った後、仲間たちは主人とともに残されました。主は、彼らのことをこう言われました、『あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです』(ルカ22:28)。

この主の食卓、主の晩餐は、古きイスラエルから新しい天的で霊的なイスラエルへの移行における重要な要素の一つです。古きイスラエルにおいて過越しの祭に込められていた意味は、新しいイスラエルにおいて実現されました。それでは、これから、イエス様の仲間たちにつながる過越しの要素のいくつかを見ていくことにします。

出エジプト記第12章に戻りますが、これは、過越し祭が初めて制定されて、始まった箇所であり、ここを読みながら、この問題の核心を深く探り、過越しが意味していたものが何かを正しく理解したいと思います。細かいところまで調べてはじめて気づくことがあり、それは、この過越しとは、神と、エジプトの神々との間の壮絶なぶつかり合いであったということです。その夜、神が、エジプト人だけでなく、エジプトのすべての神々に対する裁きを終えて、これで完了したと言われたとき、その戦いが完遂されました。それ以前にくだされた九つの裁きは、エジプト人の神々に対して宣言されたものであり、この差異を認識しなければ、エジプトに起こされたあの災厄の意味を理解することはできません。必要とあらば、それぞれの裁きがエジプトの神々とどのように関わっていたかをお話しすることもできます。一例として挙げると、カエルはエジプトでは神聖なものでした。カエルは、神を象徴するものとして崇拝されており、神――エホバ――は裁きの中で、この神々を他ならぬエジプト人たちと対決させました。全ての裁きにおいて、同じようなことが行われました。彼らは太陽を崇拝していたので、神は太陽を消し去りました。

すべてのことが、この過越しの夜に集約され、ここで完結しています。神は、エジプト人が崇拝する神々のゆえに、エジプト人たちと続けてきた争いを終わらせることになります。ねたむ神であられる神は言われました、『あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない』(出エジプト記20・3)。

これが問題の核心であり、この真理は主の晩餐へとつながるものです。まず第一に、この晩餐が意味するのは、神に反するいかなるものとも妥協しないということです。主はただ一人であり、他の誰でもありません。

二番目に注目したいのは、エジプト全体において、この国家が長子を中心とする社会であったという点です。当時も、そして今日でもなお、長子は他のすべてを代表する存在です。家族全員が長子に所属するものであり、長子に手を触れることは、彼の両親と家族に触れることと同じです。ですから、エジプト全土において、長子はその家を代表するものでした――そして、主は言われました、『わたしは・・・・人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打つ。』これとは違う種類の長子、すなわち、神のものではない長子があり、それは退けられる必要がありました。これは、ヘブル人への手紙で『長子たちの教会』(へブル12章23節)と呼ばれるものを導き入れるためでした。ひとつの長子を取り除いて、他の長子が入る場所を空けなければならなかったのです。

主の晩餐に正しくあずかる者は『長子たちの教会』に属する者たちです。彼らは、神の霊によって新しく生まれ変わった者たちであり、キリストの仲間たちです。

そして三つ目の点、すなわち、すべてが決着した場所に注目してください。このすべては、それぞれの家の敷居で決着しました。残念なことに、出エジプト記12章22節に二回、出てくるあるヘブライ語の単語の訳が、翻訳者のあいだで統一されていません。『ヒソプの一束を取って、鉢(bason)の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。』明らかに、翻訳者たちはここにあるヘブライ語の意味するところを理解できず、もっとも適切だと思われた「鉢(bason)」という単語を使ったのでしょう。彼らの頭の中では、血は当然、鉢(bason)の中へと集められて、ヒソプの束がその鉢に浸されることになっていました。しかし、ヘブライ語の「saph」という単語は、旧約聖書の他の箇所では「敷居(threshold)」と訳されています。本来は、どのように訳すべきだったかと言いますと、『ヒソプの一束を取って、敷居に塗られた血に付けなさい。』家の敷居は、もっとも神聖な場所であることは、皆さんもご存知でしょう。自分の家の敷居を越えて入ってくるのが誰かということは非常に気にかかりますし、だからこそ、迷信深い人の中には、敷居にお札を掛ける人もいるのです。馬蹄を掛けることもあります――忌まわしいもの、あるいは、彼らの言葉を借りれば「不運」を遠ざけるためのお守りです。

このような習慣は、今では迷信となってしまいましたが、その背後には大きな霊的真理があります――神が非常に神聖なものとみなす境界(threshold)があり、血が付着したその境界の後ろには、神ご自身の仲間たちがいるのです。この敷居は、神の仲間と神の敵を分ける境界を象徴するものです。モーセが、『朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない』と言ったことを覚えていますか?事実上、彼はこう言ったのです、「だれもその境界を越えて敵のいる領域に入ってはならない。血を振りかけられたその境界が、主ご自身の仲間たちであるあなたがたと、主が裁こうとしている者たちを分かつものとなるように。」夜が来たとき、ユダはその境界を越えて、外に出て行きました。

今日でもそうだと私は思うのですが(少なくともつい最近まではそうでした)、ユダヤの過越し祭の儀式では、ある時点で、長子が外に出て、外の扉、つまり、敷居のそばの扉を開けることになっています。そして、長子は戻ってきて、食卓に空の椅子と追加の杯を置きます。これは、主の遣いが敷居を越えて、中に入り、彼らの祭りに加わってくれることを願って行われるものです。聖書には、もちろん、そのようには記述されていませんが、ヘブル人たちは敷居の意味を知っていました――敷居は主にとって神聖な境界であり、主へと開かれた扉でした。

ユダはこの敷居を越えて出て行き、この世の裁きを受けました。イエス様の仲間たちはその夜、敷居の内側に留まりました。彼らは尊い血によって守られ、死から救われました。

出エジプト記十二章の背景に描かれているのは、義なる主がご自身の世界に来られて、ご自身の権利を行使する様子であり、主はこう言われます、「これがしるしであり、証印である。あなたがたがわたしを正当な主として認めるか、あるいは、認めないか、それを表すしるしは振りかけられた血である。その血をわたしが見るなら、あなたがたがわたしの友であり、わたしに忠実なものであることを知る。血を見なければ、あなたがたが敵であることを知り、あながたはわたしの裁きを受ける。わたしは処刑人と共に降り、血があれば、『そこには入るな。彼らを放っておけ。彼らはわたしの友だ』と告げる。血がなければ、『その家に入っていけ』と言う。」この章で、ご自身と、裁きを下す者は全く別のものであるかのように語られていることに注意してください。主は他の誰かを送り込まれます。これが過越し祭の背景に描かれていることです。

ここでもう一つだけ、お伝えしたいことがあります。それは出エジプト記のこの章には書かれていませんが、他の箇所にはっきりと記されています。エレミヤ(31章)は、過ぎ越しの夜、主がイスラエルの手を取り、御自身とイスラエルを婚約させたと述べています。すなわち、原理的には、過越しの夜は、結婚の儀式だったのです。この預言者の言葉を借りれば、主はその夜、イスラエルの処女を奪い、御自身と婚約させ、そして、主は彼女と血の契約を結ばれました。この結婚という関係については、実に多くのことが語られています!それは血による関係であり、『ふたりは一体となる』(創世記2章24節)。その時から、イスラエルが他の神々と何らかのつながりをもてば、それは、淫行、不品行、姦淫などと呼ばれるようになりました。それは結婚という契約に対する違反行為でした。

だからこそ、イスラエルは最後には神に見捨てられたのです。彼らは非常に敬虔であり続け、過越し祭の儀式を守っていました――しかし、主イエス様は言われました、『あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っている』(ヨハネ8章44節)。イエス・キリストを十字架にかけたのは悪魔の業であり、イスラエルはそれを実現するための悪魔の道具となりました。これは、主を拒絶し、結婚の契約を破ってきた長い歴史の最後の場面となりました。

これは暗い面です。明るい面を見ましょう!主イエスは、イスラエルの原理原則に基づいて新しい天的イスラエルを打ち立てるにあたり、これまで述べてきた多くの点において、とりわけ、次の一点の中に、この原理をそのまま受け継がれたのだと思います。すなわち、その夜、二階の部屋で結婚の晩餐が執り行われました。イエス様は、血の契約によって、教会をご自身と婚約させました。――『この杯は、わたしの血による新しい契約です』――こうして、イエス様は、天の召しに伴う仲間たちをはっきり区別されました。後ほど、この「花嫁」のことを、より詳しくお話しすることにします。

私たちは、このすべてを自分に当てはめて考えなければなりません。一面では、これは非常に厳しいものです。「主に反する何ごととも妥協してはならない」と命じられています。聖餐式が執り行われるたびに、人々はそれが意味するもの――つまり、聖餐が主の仲間と他の者たちとを現実的に、また、完全に区別するということ!――を覚えているのでしょうか。主の食卓において、私たちは婚約を祝います。私たちは、主と聖なる結婚によって結ばれ、主の尊い血によって花嫁とされました。小羊の結婚は、これから起こる大いなる出来事です(黙示録19章7節)。


原文 

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