2016年3月1日火曜日

心から心への言葉[14]何かが欠けている

[14]何かが欠けている
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

主イエス・キリストの御心は、私たちが完全になることです。『キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです(エペソ5:26-27)。』これが、主の望まれることであり、主が定められた御心です。私たちは、この御心に沿った生活から遠く離れてはいないでしょうか?確かに日々、御心を追い求めてはいますが、目標から遠く離れています!主イエス・キリストは、私たちに完全なものになってほしいのです。この世さえも、私たちにそれを望んでいます。完全でなければ、キリストを喜ばせることも、たましいを主のもとに近づけることもかなわないからです。

私たちはおそらく、初めに信じたときより、前に進んでいるでしょうし、実際に大きく、進歩してきたと思います。それでもまだ、私たちの人格と行動には、数多くの小さなしみやしわがあります。聖書に書かれているこのことばと、なんら変わるところがありません、『死んだはえは、調合した香油を臭くし、発酵させる(伝道者10:1前半)。』死んだハエがどれだけ、たくさんいるのでしょう!よくこんなことばを耳にします、『あの人は本当に主を愛しているけど、気性があまりに激しい!』あるいは、『この人は熱心なのは確かだけど、自尊心が強いところがある。』人の香油の中に、死んだハエを見つけるのは簡単なことです!主が私たちの目を開き、自分の中にも、数多くの死んだハエがいることを、見せてくださいますように!

キリストの愛に満ちた心から、私たちは時に人を助け、救います。しかし、ほどなくすると、不安を覚えます。私たちが進む道に敵が攻撃をしかけるからです。主に用いられて、人を助けた時など、これは自分の手柄だと思いこみたくなります。あるいは、どれだけの苦難にあい、例え、死んでもよい覚悟で、異国に赴き、主に熱心に仕えたとしましょう。それなのに、故郷に帰ったとき、苦しみ、疲れきった自分に、愛する人たちの誰も、賞賛のことばをくれなかったら、地獄の炎が体の中で燃え上がります。ある時は、もう決して誰も批判しないと誓いを立てたのはずなのに、気が付くと人にこんなふうに言っています、『忠告しますが、もっと、主に祈らなくてはいけません。』また、別の時には、キリストの愛に動かされて、自分もすべての兄弟を愛することを決意しますが、いつの間にか、冷淡な態度をとるようになり、離れていたのだから仕方ないと言い訳します。ああ、日々の生活にどれだけの死んだハエがいるか、誰に分かるでしょうか!清くありたいと願うなら、このことを心に留めておくべきです。ベルゼブルとは、『ハエの王』と言う意味であり、サタンは隙あらば、私たちの生活にこのハエを送り込んで、霊的な成長への思いをくじこうとしています。

いつも、何かが欠けているのです。多くの間違いを犯しながら、その罪を告白しようとせず、また、主に自分を洗い流してくださいと頼むこともしません。それが、肉にとっては耐え難いことであり、大きな痛みをもたらすからです。サタンに立ち向かい、かつて奪われたものを取り返しましょう。そうすれば、気づかないうちにサタンに食い荒らされることはありません。ぶどう畑を荒らす小狐を捕まえましょう(雅歌2:15を参照)。

古いパン種を取り除き(1コリント5:7を参照)、あちらこちらにある、『少しの愚かさ』を消し去って(伝道者10:1後半を参照)、私たちの父が完全であるように、私たちも、完全な大人になりましょう。

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