2017年2月20日月曜日

神前有能[第13日]祈りと苦しみ


ウォッチマン・ニー
神前有能
第2部、あなたが祈るとき。

第13日
祈りと苦しみ

あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。(詩篇4:1後半)

ある兄弟が、なぜ自分の祈りは答えられなかったのかと、尋ねてきました。私の答えは、そこに苦しみがなかったからだというものでした。彼が重ねて、何故、苦しみが必要なのかと質問したとき、私は、祈りが応えられるためには、苦しみがなくてはならないと、答えました。実際に、私は兄弟たちに、よくこんな質問をします、神はあなたの祈りを聞かれていますか?それに対して、よくある答えは、『3回、5回と祈った後で、そのことは忘れてしまった、』というものです。何故、忘れるのでしょう?のしかかる苦しみを感じていないからです。いつもこんなふうになるのは、奇妙なことではないでしょうか?

自分が何を祈ったのか忘れてしまったのなら、神がそれを覚えていないと言って、とがめることができるでしょうか?あなたが、わずかばかりの祈りの言葉を、軽い気持ちで口に出しただけなら、神がそれに応えないのは当然のことです。多くの人は、作文でも書いているかのように祈ります。そんな人は、何も祈らないほうがましでしょう。多くの人の祈り方は、祈りの第一の原則に反しています。祈りにまず必要なのは、信仰でも約束でもなく、求める心です。渇望のないところ、祈りはありません。祈っても返事がないことも、不思議はありません。

信者の祈りに応えるために、神はまず、祈る必要を与えます。その信者に何かの苦しみを与え、相手に祈る必要を感じさせるのです。こうして、信者は答えを求めて、神のほうを向きます。


ジョン・ノックスは力強い祈り手でした。イングランドのメアリー女王はこう言ったことがあります、『私はスコットランドの全軍が来ても怖くないが、ジョン・ノックスの祈りだけは恐ろしい。』ジョン・ノックスはどのように祈ったのでしょう?彼はこう言ったのです、『おお神よ、スコットランドを私にくださらなければ、私は死にます。』なぜ、彼はそのように祈ったのでしょう?彼の中の苦しみがあまりに大きかったからです。計りしれないほどの苦悩を、彼は神の御前に注ぎ出しました。ジョン・ノックスの内にあった苦しみが、この祈りを吐かせたのです。

モーセが当時、なぜ、次のように祈ったのか、理解しにくいかもしれません、『今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。』(出エジプト記32:32)それは、その必要をモーセが意識していたからです。この必要を、自分の苦しみと感じたので、神がイスラエルの子供たちを救ってくれないなら、自分は滅びたほうが良いとさえ思ったのです。このゆえに、神は彼の祈りを聞きました。

パウロの心も同じでした、『もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。』(ローマ9:3)彼は、イスラエルの子供たちが一緒に救われないなら、自分も救われないほうが良いとすら思ったのです。これは、口先だけの言葉ではないし、感情の赴くままに口走ったことでもありません。彼らの救いを求めて苦しんだとき、心の奥底に生まれた思いから吐き出された言葉です。他の誰かの祈りを真似する人もいますが、そんな人の祈りは効果のない、無意味なものです。そこに、苦しみがないからです。神が答えてくださるまで、立ち上がらないと祈る人はいますか?その思いと言葉を心に秘めている人が本当にいたら、その祈りは聞かれるでしょう。あなたも、御前に進み出て、同じ言葉で祈ってもよいのです。しかし、そこに欠かせないのは、内なる苦しみを感じていることです。

応えられる祈りと、応えられない祈りがあるのはなぜか、これで理解できるでしょうか。神が、大きなことに対しての祈りを聞きながら、小さなことに関しての祈りは聞かないことがよくあるのは何故でしょう?私たちの愛する者、友だちや同僚が重病で危険な状態の時は、神は私たちの祈りを聞かれるのに、自分が頭痛や風邪、ちょっとした切り傷を負った時には、すぐには祈りを聞いてくれないのは何故なのでしょうか?前に言ったことですが、もう一度、言わせてもらいます。自分を動かさない祈りは、神を動かすことはできません。それは力の問題であり、その力をもたらすのは苦しみです。

なぜ神は、多くの苦悩、多くの苦境、そして、多くの避けられない困難が、人生の途上で起こることを許されるのでしょう?ただ一つの理由とは、その苦しみを利用し、祈りにおいて強くなるように呼びかけているからです。私たちの問題は、苦しみを力へと転換して用いるにはどうすればよいか知らないことです。

全ての苦しみには目的があると知るべきです。とは言え、その苦しみが耐え難いほどひどくなるまで、祈るのを待つ必要はありません。苦しみがある時だけでなく、苦しみのない時にも祈ることを学ぶべきです。苦しみがある時は、一つ一つの苦しみを力に転換して、それを利用しましょう。そうすれば、苦しみが起こるところでは、神が、死者をよみがえらせるその力を現わそうとしていることが、分かってきます。よみがえりの力よりも大きな力はありません。そして、苦しめられて希望もなくしているときこそ、自分の中から流れ出す、主のよみがえりの力を体験するでしょう。

これまでの人生で、何度、あなたの祈りは答えられましたか?祈りに対する答えをはっきりと受けとったことが、少なくとも、2~3回はあったはずです。何故、その数回の祈りは答えられたのでしょう?それは、あなたが苦しみを感じていたから、そして、その中で、あなたが神の御前に心を注ぎだしたことは、あまりに大きかったからではないでしょうか?それまで、断食したことはなかったのに、その日に限って、あなたは断食せずにいられない気持ちになったかもしれない。あなたは、神の前に来ないではいられないと感じたのです。あなたはもはや、祈ることを重荷であるとは思わなくなりました。むしろ、まったく逆で、祈りが、その日、あなたの重荷を下ろす手段となったのです。

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