The On-High Calling - Volume 1
セオドア・オースティン-スパークス著
第四章 召された仲間たちの歩みの真の基礎
Chapter 4 - The True Basis of Life for the Companions
今回は、キリスト教生活において大きな意味を持つ二つの言葉について、若いキリスト者の皆さんのご理解をお助けしたいと思っています。その単語とは、「天の(heavenly)」と「信仰(faith)」です。ヘブル人への手紙を少しでもご存知であれば、この二つの言葉が、この手紙の中でとくに際立っている二つの言葉 であることに気づかれるでしょう。
この「天の」という言葉は、さまざまな形で、この手紙の中で繰り返し現れています。
「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。」(ヘブル3:1)。
「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのです。」(ヘブル4:14)。
「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、・・・・」(ヘブル6:4)。
「以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、・・・・」(ヘブル8:1)
「その人たちは、天にあるものの写しと影とに仕えているのであって、・・・・」(ヘブル8:5)
「ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。」(ヘブル9:23)
「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。」(ヘブル11:16)
「また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、・・・・」(ヘブル12:23)
「あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」(ヘブル12:26)
このように、この手紙は天に属する事柄について多くのことを語っていますね。そして、第3章では、私たちもこれらの天に属する事柄とのつながりの中で召されていると述べられています。私たちの召しは天の召し、天に属する生活への召しであり、それは、死後の生活ではなく、今のこの時の生活のことです。
「信仰」という言葉が出てくる箇所をすべて挙げるつもりはありません!この言葉は、この手紙の中で非常に大きな位置を占めており、ご存知のように、ひとつの章、つまり11章の全体が信仰に充てられています。
「天の」と「信仰」というこの二つの言葉がありますが、若いキリスト者たちにとっては非常に理解するのが難しい言葉です。若いキリスト者たちに、「あなたは今、信仰の生活に召されています」と言えば、彼らはそれを非常に限定的な意味に捕らえるかもしれません。すなわち、そうなると彼らは、神を信じなければならないとか、神は救うことができる、神は守ることができるとか、神は与えることができると言ったことです。確かにそれは全て真実ですが、これから見ていくように、そこにはもっと大きな意味が含まれています。私たちが、もし若いキリスト者に、「あなたは今、天に属する生活を送るように召されています」と言ったら、彼らはどう思うでしょうか!これは、なんと難しい考えでしょう!彼らはこんなふうに言うのではないでしょうか、「私たちはこの地上の世界で生きなければならないのに、どうすれば天に属する生活を送ることができるんですか?」
それでは、そのような人々、そして他のすべての人々を助けとなるようにしてみましょう。もう一度、言いますが、「天の」と「信仰」は一つのものです。
このことを例証するために旧約聖書に戻って、ここでもう一つ、重要な言葉を使うことにします。神が人や民というかたちをした器を取り上げたときは、神は常にその器、その人、またはその民を超自然的な基盤の上に置かれました。神は彼らの生活の基盤が超自然的なものとなるよう、あらゆる手段を講じられました。神は彼らを自然の基盤から完全に引き離されました。それは、彼らにとって、超自然的なものがなければ、何もなかったからです。彼らにとってそれは非常に困難なものでありましたが、このようなかたちではじめて、彼らは自分たちが超自然の神、自然を完全に超越した神との関係に入ったことを理解したのです。神は、これらの人々にとって自然にはあり得ないような状況を創り出され、それから、自然にはあり得ない問題を解決されることでご自身がどれほど大いなる主であるかを示されたのです。
例えをいくつか見てみましょう。まずアブラハムから始めます――この人はヘブル人への手紙の中で大きな位置を占めています。アブラハムは、神に非常に偉大な目的のために選ばれました。これについては後で詳しく見ていきますが、ここでは事実を簡潔に述べるだけにしておきましょう。アブラハムは、ある一族の父となるよう召されました。それは神が起こそうとしており、また、その一族を通して御子イエス・キリストが生まれることになる一族でした。神は彼に言われました、『あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる』(創世記22:18)。このことばに注目してください、「あなたの子孫によって」――そして、神は離れていき、彼は一人残されて、長い間、何もなされませんでした。神は戻って来られ、約束を繰り返しましたが、その時にはアブラハムは90歳、妻もほぼ同じ年齢になっていました――それでも、神はこう言われました、「あなたの子孫によって」。普通に考えれば、全く不可能な状況でした!「不可能です!」とサラは言いました、「とても考えられないことです!自分たちで何とかしなければなりません。」そして、彼らが何をしたか、ご存じでしょう。彼らは神の働きを自然な、人間的な手段で行おうとしました。サラは、侍女であるハガルを招き入れて、自然なこの世的なかたちで神の約束が実現されるよう試みました。しかし、聖書に通じている私たちは、それが神のやり方ではなかったこと、そして、神がそのようなやり方をお認めにならなかったことをよく知っています。神はご自身の立場――超自然の立場を堅く保たれました。もしこのようなことが実現されるとしたら、全能の神だけがそれを成すことができます。男でも女でもそれを行うことはできないし、二人一緒になっても成し遂げることはできません。神だけがそれを成し遂げることができる――そして神はそれを成し遂げました!神は彼らを超自然の立場に立たせたのです。それは大きな信仰の試練でした!それは地上の立場ではなく、天の立場でした。自然の立場ではなく、信仰の立場でした。そして、神はそのようにして、ご自身の約束を果たされました。
これが最初の例証であり、この原則が聖書全体を貫いています。
アブラハムとイサクからヤコブへと話を移します。ヤコブは長子の権利を手に入れました。ヤコブがその権利を受けることは神の意図でした――つまり、ヤコブは神の鎖の次の輪、神の永遠の目的を進めるための神の一歩となるように定められていたのです。しかし、ヤコブは、それを自らの手で行おうとしました。事実上、彼はこう言ったのと同じでした、「これは私が自分でやる」。そうして、彼は父親を欺き、兄から長子の権利を奪いました・・・・しかし、彼のささやかな計画は全て崩れ去りました。彼は家を離れて、遠く離れた叔父のもとへ行かなければならなくなり、そして、それから二十年間に渡って、神がその目的を遂行されている兆しはどこにも見られませんでした。この時期の終わりにヤコブを見ると、そこにはひどく幻滅しきった男、自分の身に何が起こるのかを非常に恐れおののいている男がいます。彼は、兄と会う際に自分の身を守るための計画を立てていました――そしてその時、神が彼に会われました。神がヤコブと出会われたあの夜の話はご存知でしょう。ヤコブは神の意図を自然な土台の上に実現しようと試みましたが、神はその土台を完全に打ち砕かれました。その夜、ヤコブは、もし神が彼の人生において何らかの目的を果たそうとするなら、それを成し遂げられるのは神ご自身だけであることをはっきりと理解しました。神が彼の名前をヤコブからイスラエルに変えたとき、神はこの男を、地上の人から天の人へ、生まれながらの人から信仰の人へと変えられたのであり、それから初めて、神は彼と共に歩み始めました。ヤコブが生まれながらの自然の土台に頼っているあいだ、神は彼と共に歩むことはできませんでした。神が、ヤコブをその土台から引き離して、天の土台へと導き入れたとき、神とヤコブは共に歩みを進めることができました。
今度は、ヤコブからヨセフの話に移りましょう。ヨセフの物語は、旧約聖書の中でもっとも魅力的な物語の一つです!ヨセフはまだ若かった頃から、多くの心ない言葉が投げかけられてきました。もちろん、そういうことを言うのはたいてい年老いた人たちです!ヨセフはいくつかの夢を見ましたし、若い人たちはいくら夢を見てもいいものです!皆さんもその夢を覚えているかもしれませんが、彼は太陽、月、星が彼にひれ伏し、他のものも同じようにひれ伏している夢を見ました。おそらく彼が兄弟たちに自分の夢を話したことが、大きな間違いだったのでしょう。兄弟たちにはその意味を察知するだけに知恵があって、その夢を自分たちに害をもたらすものと解釈しました。彼らは言いました、「私たちがお前にひれ伏すことになるというのか?お前は私たちの年下の弟ではないか。私たちが、お前にひれ伏したりするはずはない!」
さて、ヨセフが軽率であったことについていろいろとかたることはできますが、結局、あの夢は文字通り現実のものとなりました。その日、兄たちはヨセフの前で縮みあがり、命を失う恐れに震えていました。「ああ、ご主人様」と彼らは言いました。「どうか憐れんでください!」あの夢が、現実のものとなったのです。そこには神に由来する何ごとかがあり、ヨセフの心にはいつもあの夢があったのだと思います。
ヨセフは、神の御心によって高い地位に昇りつめ、大いなる働きによって神に仕えることになりました。それは、まさしく、神に選ばれた民全体を生き延びさせるという大きな働きだったのです。
しかし、この兄弟たち――彼らは会合を開きました。そこで話し合ったのは、この年若い弟をどうやって始末するかということでした。兄弟の一人は言いました、「あいつを殺し、血に浸した着物を父の元に送り返して、野獣に殺されたことにしよう。」別の兄弟は言いました、「いや、殺すのはやめよう。どこかの穴に投げ込んでしまおう。」彼らはヨセフを深い穴に投げ込みました。それもやはり、別のかたちでヨセフを殺すということでした――そこで死なせるつもりだったのです。彼らはヨセフを残して立ち去りました。すると、そこにラクダがやって来て、彼らのいた場所を隊商が横切るのが見えました。彼らは、ヨセフを穴から出して隊商に売ることに決めました。このようにして、彼らはヨセフをエジプトへ下る商人たちに売り渡し、ヨセフはエジプトに連れていかれて奴隷として売られました。ああ、神の主権は実におどろくべきものです!ヨセフは、どうしてもエジプトへ下らなければならかったのです!神は彼がエジプトへ行くように定められており、そこでヨセフは、神の民を救うという偉大な業を成し遂げることになるのです。しかし、ヨセフにはこのようなかたちでエジプトへ行くとは思いもよらないことでした!
しかし、彼はエジプトへ行き、ある権力者の奴隷となりました。細かいところまでは説明しませんが、その男の妻の悪だくみによってヨセフは地下牢に入れられ、何年もそこに放置されました。今や、彼の夢はどうなってしまったのでしょう?全くどうしようもない状況に陥りました――しかし、このようにされたのは神でした。この大きな目的は、自然の土台の上では決して実現できないものでした。自然を超える土台の上ではじめて実現できるものでした――超自然の土台に置かれた人がいるとすれば、それはヨセフでした!しかし、地上から天の土台へ、自然的な立場から信仰の生活へのこの移行は、非常に困難な道のりでした。これは肉にとってはあまりに厳しいものでした――そして、それは常にそうなのです!しかし、自然を超えた主がそれを成し遂げました。ヨセフがそれを成し遂げたとは言えないし、それを人間の働きに帰することもできません。それを成し遂げることができたのでは神だけでした。それは、超自然の基盤、天の基盤の上で成されたものであり、地上の基盤ではなかったのです。それは、信仰の道であり、見ることによる道ではなかったのです。
ここで、イスラエルについて、かなりしばらくの時間をかけて語らなければならないと思います。その後、ヨセフによって救われたその民自身が、長い年月の後にはエジプトで奴隷となっていました。神はアブラハムに、彼らはエジプトで四百年間、奴隷とされるが、その奴隷状態からいずれは解放されるだろうと告げていました。神は後に、力強い御手によって彼らを救い出すことになります。しかし、彼らはエジプトに留まり、事態は悪化の一途を辿り、そして、さらに恐ろしい事態へと進んでいきました。全体的な状況は、これ以上はないほど絶望的なものとなり、それをさらにあり得ないほどひどいものにするために、パロはその頃、生まれた男の子たちを皆殺しにしようと決意しました。この後どうなったか、お話しするまでもないでしょう!『このようなときに、』と書かれています、『モーセが生まれたのです(使徒の働き7:20)。』モーセはそのあり得ない状況の中で生まれたわけですが、全ての男の子たちが皆殺しにされていた時、彼が生き延びたのは超自然的なことではなかったなどと言えるでしょうか?それは超自然の土台の上で行われたことであって自然の土台ではなく、天の基盤の上であって、地上の基盤の上ではなかったのです。イスラエルの民がエジプトから解放された物語――いわゆる「出エジプト」――をざっと一瞥するだけで、それがどれだけ困難な状況であったかが分かります!パロは、民の脱出を阻止するためにあらゆる手段を尽くしました。パロは、民の出エジプを止めるために、できることは何でもやりました。しかし、もっとも暗澹たる状況に至ったときに神が介入し、力強い御手で民を救い出されました。何年も前に、主ご自身が約束されていた通りです。この出エジプトは超自然的な基盤の上でなされたのです。
荒野での四十年のはなしも同じです。それが、超自然的ことであると信じられないなら、実際に荒れ野に出て行って四十年間、暮らしてみてください!それも、あの同じ荒れ野に行ってみるといい!私は飛行機で何度もあの荒れ野の上空を通過しましたが、そのたびに、「いったい、どうやって一つの民族がこんな場所で四十年間も生きられたのだろうか?」と言ってきました。その答えはこうです:彼らは「地上で」生きたのではなかった。彼らは天からの支えによって 生きたのだ。神が天から彼らに食物を与え、彼らを守った。あらゆる意味で、それは天的な生活だった。自然な生活ではなかった。それは神であった。神は、この民を超自然的な基盤の上に置かれたのだ。
その時代は終わり、ヨシュアの時代へと進みます。ヨシュアが直面しなければならなかった苦境は、皆さんもご存じですね!カナンの地には、強大で邪悪な数多くの国々が存在しており、ヨシュアは民を率いてその地を占領して、その国々を追い払わなければなりませんでした。あなたがたは、それが人間的な力で成し遂げられたと思いますか?いいえ、神が全てを支配し、イスラエルの民はその地に入りました。イスラエルの民はヨルダン川が岸いっぱいにあふれていた時に渡り、足をぬらすことなく渡り切りました。この物語の続きは皆さんもご存知でしょう。
それから何年も先に進んで、士師記に移ります。この書から一つだけ例を挙げましょう。イスラエルは非常に強力な国々に包囲され、「海辺の砂のように多くて数えきれない」(士師記7:12)ほどのミデヤン人がイスラエルを取り囲んでいました。状況は非常に困難極まるものでした!主はギデオンを召し、彼が戦いに出てこの連合軍と対峙すること、彼がイスラエルをこの敵から救い出すことを告げました。ギデオンは「そのためには大軍が必要だ」と言って、イスラエル全土に使者を遣わして、非常に大きな軍隊を編成しました――少なくとも、当時としては大軍と呼ばれる規模の軍隊でした。ギデオンには二万二千人の兵士がいました。しかし、主はギデオンに言われました、「あなたの軍隊は大きすぎる。確かに他の敵はあなたの軍隊より何倍、何十倍も数が多いが、それでも、あなたの軍隊は大きすぎる。」そこでギデオンが彼らを試すと、非常に多くのものが家に帰り、ずっと小さな規模の軍隊だけがギデオンのもとに残されました。そこで主は言われました、「それでもまだ多すぎる。」主がギデオンを天の土台へと導こうとしていることは間違いありません!神がギデオンに対するこの導きを終えたとき、彼のもとに残ったのはわずか三百人の兵士であり、主は言われました、『三百人で、わたしはあなたがたを救う』(士師記7章7節)――そして、主はその通りにされました。
神がギデオンを天の超自然的な土台へと導いたことに注目してください。ギデオンにとって、これは大きな試練となる出来事でした!あなたは、これは信仰ではなかったと言われるのですか?信仰と天の土台は切り離すことができません。
天的であるとは何か、また、信仰とは何かというその意味がお分かりになってきたでしょうか?信仰とは、ひとりの人にも、多くの人々にもできないことをも、天は成し得ると信じることです。どんな状況や境遇にあっても、天にとって不可能なことは何もありません。
さて、それだけではありません。後の時代、イスラエルがバビロンに捕囚され、七十年間もそこにいたことを覚えているでしょう。その期間が終わったとき、彼らは非常に惨めな状態にありました。しかし、祖国へ帰還する時が来たことを知らされた時、この民の大多数はこう言ったのです、「いや、それは無理だ。あそこへ戻ってもだめだ。この状況は全く絶望的だ。あの国は荒廃し切っていて、街は破壊されてしまった。私たちには、あそこに戻る気力なんてない。」しかし、残りの者たちは帰還しました。その後、神がどのようにしてそこに介入して彼らを助け、そのすべてを支配されたか、あなたがたも詳しくご存知でしょう。神は、彼らに必要なものをすべて与え、驚くべき方法で彼らを助けました。そのおかげで、帰還した民は、街と神殿を再建し、土地を再び豊かなものにしました。しかし、このすべては超自然的なことでした。ほとんどの者たちは「不可能だ!」と決めつけました。ごく少数の者が神を信じました。
どこまで続けましょうか?旧約聖書を離れ、これらすべてが指し示している方――イエス様のもとに行くことにしましょう。これまでのすべてはイエス様へとつながっていました。神は御子を遣わすと約束されました。預言者たちは救い主の到来を大いによろこんでいましたが、イスラエルの側では、救い主に関する人々の考え方は、きわめて人間的、この世的なものでした。「もちろん、その人は偉大な支配者、途方もない力を持つ人だろう。皆が、その人のもとに集まる。救い主は、このすばらしいイスラエル王国を築き、ローマ人は私たちの国から追い出されることになる。」これが彼らの救い主に対する人間的な考え方でした――しかし、イエス様が来られると、主が誕生された時はイエス様のための場所はなく、当時の権力者は、生まれたばかりの男の子たちを皆殺しにするという昔ながらのやり方を始めて、このただ一人の男の子を亡き者にするという目的を果たそうとしたのです。イエス様が生き残ったこと自体が天の奇蹟でした!主の誕生は天の奇蹟であり、超自然的な出来事だったのであり、それはイエスの生涯も同じでした。私たちはどれだけ次のような記述を目にしてきたでしょうか、「彼らはイエスを殺すための計画を立てた」、また、「彼らは石を取ってイエスに投げつけた。」主が伝道という使命を全うされたことは、天がなされた奇蹟でした。それは、超自然的な出来事でした。
では、主の死についてはどうだったでしょうか?彼らはイエスを殺す計画を立てるために話し合い、それを実行に移すことに決めました。そして言いました、「過ぎ越しの祭りのときはいけない。その日は避けた方がいい。」・・・・神は言われました、「すべてはわたしの手の内にある。それを決めるのはわたしであってあなたがたではない。それが起こるのはわたしが選ぶ日であり、その日は過ぎ越しの祭りの日である。」イエス様はご自身の死についてこう言われました、『だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです』(ヨハネによる福音書 10:18)。主は、ご自身が死なれるとき、それは、人の手によるのではなく、神の手にあると言われたのです。そして、彼らが話し合って決めたこととは逆に、それは過ぎ越しの日に起こりました!そうなるしかなかったのです。幾世代にも渡って、多くの出来事が、その死へと向かって起こってきたのですから。イエス・キリストの死と復活は自然を超えるもの――人の手ではなく、神の手によるものでした。
そこから教会の時代へと、さらに話を続けることもできます。教会の歴史は、ペンテコステの日に始まったのであり、その全体は奇蹟です。初期の教会は迫害を受け、多くのキリスト教徒が虐殺されました。ローマ帝国は、キリスト教を地上から根絶させることを決定し、その時以来、幾度にも渡って、教会は非常に深刻な危機を経験してきました。しかし、神の教会は前進し続けています!教会は、今もなお存在し、成長を続けています。これは超自然的なことです。
なぜこのようなことをお話ししてきたのでしょうか?これは、アブラハム、モーセ、ヨシュア、ギデオンだけに起こったことではありません。旧約聖書に現れる人々に限定されたことでもありません。このヘブル人への手紙はキリスト者たちに宛てられたものです。私たちのために書かれた手紙であり、そこには、私たちが、『天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち』であると述べられています。私たちはキリストに召された者たちではありますが、神は、ご自分の民を常に置かれてきたのと同じ土台の上に、私たちを置かれたのです。
年配のキリスト者は、私が言っていることを、経験からよく理解されています。私たちの人生の中で――自分で引き起こしたわけではないのに――、全く不可能と思える状況が何度となく起こってきました!私たちは、よく「神がそれを許した」と言います。あるいは、「神がそうなるように定めた」と言うべきかもしれません。神は私たちの人生をこの基盤の上に置かれました。私たちの救いは超自然的なものでなければならず、そうでなければそれは救いではありません!哀れなニコデモは、どれだけ知恵を尽くしても、自然を超えたものを見ることができず、こう言いました、『人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか』(ヨハネ3章4節)。私たちの新生は奇蹟であり、キリスト者としての生活が支えられていること、歩み続けることができること自体が奇蹟です。また、私たちが、とても切り抜けられないと思える状況の中で、幾度となく生き延び、勝利を治めてきたことも超自然的なことです。そして、そして最後に、私たちが栄光へと移されることも超自然的な出来事になります。あなたは、あなたは自然に死ぬかもしれませんが、自然に復活することはありません。それは神が行うことです。もし私たちが本当に主の栄光にあずかることになるなら、自分自身を知っている私たちは、よろこんで言うでしょう、「それは奇蹟だ!私のような被造物が、永遠にイエス・キリストの栄光にあずかるとは!それはもう、まさに超自然的な出来事だ。」
これが信仰の意味です――つまり、他の誰にもできないことを天は成し遂げられると信じることです。信仰は非常に実践的なものです。この世界の状況は、人間的には絶望的なものです。私たちは、それに対してどうするでしょうか?すべてをあきらめて、「もう無理だ。これですべて終わりだ。私たちはもう終わりだ」と言うのでしょうか?それとも、「確かに、人間的に見ればそうですが、神には・・・・、天には・・・・」と言うでしょうか?天は地よりも偉大であり、神はすべてのものよりも偉大です。
これがヘブル人への手紙に込められたメッセージです。天に属する人生を送るとはどういうことか、少しでも理解していただけたらと思います。それは、他のあらゆる手段が尽きたときも、天が私たちのために備えてくださった備えによって生きるということです。
原文
https://www.austin-sparks.net/english/books/000969.html

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