一月七日
あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。(ルカ十四章三十三節)
何ごとも、一度、完全に明け渡された上で、そこに十字架の印を押されてはじめて、本当の意味で、完成したということができます。あなたたちは、この印を受けていますか?それがすでに、神からあなたたちに与えられていても、私たち自身の中の何かが、神からいただいたものの姿を変えてしまうという危険が常に存在しています。私たちは、その神から与えられたものの中に、自分の思いを入り込ませ、それを自分のものに変えてしまいます。この自我!この肉!ああ、そうです、神が私たちに何かの役割を与えると、私たちはその役割にしがみついて、誰にも渡すまいとし、他の誰かが難癖をつけて、その役割を奪うのではないか、そう、私たちの働きに口出ししてくるのではないかと恐れるようになります。肉とは、そのようなかたちで湧き上がりますし、他にも、いろいろな方向へ、いろいろな関わりの中へと出てくるものです。神がまず、何かをなさり、私たちはその中に入るのです。私たちが、神の為される働きに加わるのです。
一月六日
私たちには、キリストの心があるのです。(第一コリント二・十六)
生まれたままの心は、私たちが走る競争をさえぎる大きな障害物であり、ひっきりなしに、その固定観念、議論、自分だけの関心や手段というかたちをとって現れます。コリント人たちが教会へと導かれたとき、自分たちの明らかな罪は捨て去ったのですが、世のものであって、神の霊から来るものではない、古い生まれたままの考え方と論拠を、この新しい世界にそのまま持ち込んでしまいました。しかし、この使徒は、彼らを、『ところが、私たちには、キリストの心があるのです』(第一コリント2:16)ととがめ、生まれたままの心と霊的な心のあいだに、十字架をしっかりと立てて、この二つを隔てることを強く求めました。
一月五日
のがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。(イザヤ37:31)
主にとって、絶対に必要なのは、流されることのないもの、誰にも取り去られないもの、決して揺るがされないもの、そして、何よりも、根から抜き去られることがない何かです。それが、主にとっての『のがれて残った者』です。それが、主ご自身の栄光のためになくてはならないものであり、だからこそ、主は、『のがれて残った者』が、同じ仲間どおし、一つところに集まって、下に根を張るように、あらゆる手段をとられます。もちろん、上に実を結ぶためです。私たちは、ものごとの上向きの面について、すなわち、天的な生活、天から来たものに囲まれた暮らし、私たちの戦いやはたらき――主と結びついた私たちの生活が結ぶ実ついて、多く語ります。しかし、これは、下に根を張っていて、初めて可能なものです。これが現実となるためには、私たちは、決して揺り動かされない場所、すなわち、根が堅く張っていて、何があっても引き倒されるないところに至らなければなりません。そして、これが、今、この時代に、ご自身を信じる霊的な民に対して、主がなさっていることの大部分を説明していると、私は思っています。
一月四日
この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。(ヘブル十二・二十七)
エルサレムの崩壊によって――この(ヘブル人への)手紙が指摘した崩壊のことです――ユダヤ民族から見れば、まさしく、この地全体が揺り動かされました。全世界の中心点としての神の宮は、地にまで崩れ落ちました。祭司という特権階級のもとにまとまっていた聖職者制度も消え去りました。宮での務めは終わり、国は、もはや、ひとつに結束した人々の集団ではなくなりました。こういったものは、いつ取り除かれてもよかったのです。それが、どれだけ長く存在してきたでしょう!どれほど大きな力にも、持ちこたえてきました!自分の存在が終わることなど絶対にありえないという強い確信を、彼らは持っていたことでしょう!自分たちのすべてが神と固く結びついているのだから、破壊されることも、この世から消えることも絶対にありえないと、彼らは信じきっていたことでしょう!すべてが失われる最後の瞬間まで、彼らは激しく戦い、しがみついていたはずです!しかし、それもまったく無駄でした。神が、もはや、それまでの枠組みや地上の制度を欲してはいなかったのは、こういったものが、あまりに多くの場所、活力と資材を占めてきたため、本当に霊的な状態が実現する妨げとなっていたからです。その中で、霊的な価値が占める割合は、結局、あまりに小さく、また、霊的な関心は、宗教的な機構と伝統という入り組んだ迷路のずっと奥の方に置かれてしまっていたため、そこには何の価値もなくなっていました。目的があっても、そこに達する手段は近くにはなかった、すなわち、手段と目的のあいだの開きが、あまりに大きすぎたのです。神が本当に求めるものに、直接、触れることはなく、そのあいだにあるものが、あまりに多すぎました。それは、もはや捨て去るしかなく、そのままにしておくことをやめて、神ご自身がそれを払いのけたのです。
一月三日
私は、キリストとその復活の力を知りたいのです。(ピリピ三・十)
復活が常に意味しているのは、われわれはこの世の外にいるということです。復活の後、主イエスは、一度もこの世界に現われていません。復活の後、主は御自身の姿を、この世の誰に向かっても現されていません。主の復活とは、主がこの世を去り、世の外側に離れて立たれたことを意味しており、そして、世から離れていることが、世を支配する主の御力となりました。この世界で何ごとがあっても、主が助けることができるのは、主がもはや、その出来事の内側にはいないからです。復活のいのちが意味するのは、私たちが霊的にこの世界の外側にいること、世を超えた場所に立っていることです。・・・
一月二日
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント五・十七)
このみ言葉は、キリストが既にこの古い創造の外側に取り出され、天で神の右側につかれていることを明白に語ってくれます。また一方で、主がここにおられること、そして、私たちが主と霊的にひとつになっていることは、私たちもまた、全ての霊的な計画と備えのために、キリストにある天的な性質の中にいることを意味していると、このみ言葉は教えています。・・・主イエス様、そして、私たちが導き入れられたこの新しい創造の大きな世界の偉大なる真実について、本物の霊的で生きた理解を、早く与えてくださるように主にお願いし、また、理解したことを日々の暮らしにあてはめ、実践し、日々、現実の中で用いるようにしましょう。
一月一日
神のご計画に従って召された人々(ローマ八・二十八)
神は、信じるものたちのために、実に大きな計画をお持ちであり、その計画は、彼らの永遠の召し、そして、彼らのすばらしい贖いによって実現するものです。実に大きな計画であり、ほとんどのキリスト者にも、はかりしることすらできないほど大きなものです。おそらく、過半数のキリスト者は、自分が救われたことを知っていて、自分が救われたことが嬉しくてたまらず、救われていることを喜んでいるだけで、そこから先に進もうとは、ほとんど思ってもいないといっても、あながち間違いではないでしょう。永遠からなる神の本当に大きな計画を理解し、その中にいる人たち、すなわち、『神のご計画に従って召された人々』(ローマ8:28)は、比較的少ないのです。そのご計画とは何なのかを語り、説明するのは、今の私たちに課せられていることではありません。事実を述べるだけで十分です。私たちは実に大きな計画をもって召されたのですが、それは、ただエジプトから、また、悪魔の爪から抜け出すことではなく、そこには、ある目的、ある壮大な目的があり、その目的とはまさしく、神の御子であるイエス・キリストのどこまでも満ち満ちたさま、そして、永遠のはたらきとともにあるものです。私たちがキリストにあって、召されているのは、実に大きなことなのですが、現実には、どれだけのキリスト者が本当にこの召しの中にいるのでしょう。そして、自分がその召しの中にいることを知っているとして、どれだけのものがその意義、すなわち、主にあるこのいのちは、尽きることのないいのちであり、そこにはどんな時も、新しい展望が開けているという大きな意義を味わっているでしょうか?