2016年2月1日月曜日

心から心への言葉[06]隠される

[6]隠される
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

神の聖人たちよ、この世の名声を求めることはやめ、むしろ、神の中に自分が埋もれることを良しとしましょう。名声と栄誉を追い求める時、人は悪魔に傷つけられているのです。主の御手の中に自分を隠す人たちは、守られており、心も穏やかです。神の聖人にとって、世の栄光を追い求めるのはあってはならないことです。主を本当に愛する人は、この世で認められたいなどと望まないはずです。それなのに、信者の中には、高いところに置かれることを望み、また、キリスト者の集団や神の人たちの集まりにおいて、自分を『先生』と呼ばせている人たちが多く見られます。ここで、信者の問題は、世ではなく、教会にあります。私たちの主は実に賢いお方です!主は初めから、私たちがお互いを兄弟と呼び合い、他の言葉を使わないように言われたのです(マタイ23:8参照)。ああ、指導的な立場にある兄弟たちの中にさえ、尊敬の念を込めて呼ばれたいと望む人が多くいます。聖霊の働きを通して、十字架の精神を受け入れない限り、名声を得たいと言うよこしまな思いから逃れることはできません。

多くの人たちが、世とは、この世界の中にだけあるものと思い込んでいて、世は教会の中、そして、信者の心の中にまで存在することに気づいていません。このようなよこしまな心は、信者が本当の意味で世に死ぬまで、消え去ることはありません。聖人の中でも、十字架で主と共に死ぬことによって、本当に主とひとつになったものだけが、教会と心の中にある世に対して死ぬことができます。この世の名声を求めないことは心の問題です。もし、主ご自身が私たちを人目を引く場所に置かれるなら、そこから身を引く必要はありません。残念なことに、人は名声を得ると、その後、さらなる称賛を欲するようになるものです。心の奥底では名声を望んでいるのです。しかし、主のもとに安らぐことを願っているなら、神の喜びのみを求め、人の意見には耳を傾けないでください。そうすれば、どこであれ、神が私たちのために定めた場所にとどまり、そこで安らぎを見出します。私たちが安らぎのある場所に至ることを、主は望んでおられます。神のうちに隠されるとは、何かから引き下がることではありません。それは名声を得ることを意図しておこなうことでもなく、何かから逃避することでもありません。ただ、神の胸のうちに休息することです。

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