2016年2月6日土曜日

心から心への言葉[08]知識と裁き

[8]知識と裁き
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

裁くことは聖書の中で禁じられています(マタイ7:1を参照)。神の聖者は人を裁いてはならないはずなのに、今日のキリスト者は、キリストにある兄弟に対して裁判官として振舞うことがあります。キリスト者はこの世でもっとも批判的な人たちだと言われるのを、私は何度も聞いています。これは、今の時代のキリスト者が陥りがちな過ちのようです。私たちが語る言葉の見張り役として、主が定めた人たちを敬ってください。裁くことは知識と密接につながっています。物事に明るくない人ほど、裁いてばかりいます。人の言うことだけとを聞いて、事実を確かめもしないうちに、相手を裁くのは、実に考えが足りません。誰もが、人に分からない秘密を持っているのですから、それをかえりみずに拙速に相手を裁くのは不公平なことです。他の誰についても完全に知っていることなどあり得ないのですから、あえて裁かないようにするべきです。

ある人や状況について、すべてを把握していると思い込んでいても、そこにはやはり、自分で気づいていない誤解があるかもしれません。私たち自身も、どれだけ誤解を受け、誤った批判をされてきたか、それが、どれほど辛く苦しいものだったか、思い出してみてください。その時、私たちを裁いた人たちは、すべての事実を知り尽くしていると信じ込んでいたのです。私たちが人を裁いた時も、同じように思っていたのではないでしょうか。自分が裁かれたときは心をかき乱されたのですから、なぜ、他の人には、善意を持って判断してあげないのでしょう?

残念ですが、聖書知識を学んだがために、それが、他の人を裁く原因となることがよくあるのです。事実、頭の知識が増えるほど、私たちの裁きも厳しいものとなります。そうなると、知識ばかりを積み重ねる意味など、どこにあるでしょう?悲しいことに、本から学んだもの、頭に詰め込んだ知識が、人を裁く根拠となってしまい、このため、聖書の教えが明確であればあるほど、私たちが下す裁きも厳しいものとなることがよくあります。しかし、神は私たちを裁判官として任命したわけではないのです。そしてまた、人を裁くものは、キリストの裁きの座で自分が裁かれると、いつも心に留めておくべきです。人を非難することばかりを好んで、悔い改めようとしないものは、神には受け入れられません。

他の人のために神の御心を求めることはやめましょう。神ご自身が彼らを導いてくださるからです。神が私たちを導いてくださったのなら、他の人たちも導いてくださいます。あることが、自分から見て神の御心と思えないからといって、他の人に対しても御心ではないと決めつけると、そこで、人を裁いてしまうことになりかねません。神ご自身が責任を負われるのです。そこに、私たちの助けは必要ありません。神が誰かをすでに許されたのに、私たちがその人たちを批判し続けることがよくあります。私たちは神より正しいとでもいうのでしょうか?そのような罠におちいることがありませんように。神が兄弟の過ちを負い、それに耐え忍ばれるのなら、私たちも同じようにすべきではないでしょうか?神が覆い隠されたものを、さらけ出すことはやめましょう。他の人たちを裁き続けることは、人間として無益であり、自分にとっても恥ずべきことです。人は、神が自分にどれだけ憐れみ深くあったか、すぐに忘れてしまうものです。

この困難な時代にあって、神の子供たちが示すべきものは、厳しい裁きではなく、優しい愛です。主にある兄弟が、あなたのために、いつまでも痛みに満ちた涙を流すことがあってはいけません。むしろ、隣人の傷口に、よろこびのぶどう酒と聖霊の油を注ぎ、優しく包み込んであげなさい(ルカ10:34参照)。その人たちには慰めをあげなさい。裁いてはいけません。

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