2016年2月11日木曜日

心から心への言葉[09]静けさ

[9]静けさ
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

今日の信者たちが持つ欠点を、私は見てきました。それは、話し過ぎることです。このために、彼らは『落ち着いた生活をする(第1テサロニケ4:11前半)』ことができません。性格的に自分から進んで話さない人もいますが、ほとんどの信者はこの点、あまりに積極的に過ぎるようです。神の恵みを多く受けた人ほど、静かに頭をたれるものです。しかし、キリスト・イエスの中に、まだ十分深い根を下ろしていないものは、軽薄で、言葉多く話し過ぎるきらいがあります。

箴言18:2にこう書かれています、『愚かな者は英知を喜ばない。ただ自分の意見だけを表わす。』まさに、このとおりです!神のうちに、自分の足がかりができていない人ほど、自分の良いところをひけらかすものです。しかし、主にくり返し触れられると、誰もが、こう語ったエレミアのようになります、『私はあなたの御手によって、ひとりすわっていました(15:17後半)。』静かな生活は、キリストの香りを放ちます。あまり多くを語らない人が話す時は、その言葉に重みが加わります。反対に、いつも話し過ぎる人には、霊的ないのちが欠けています。

主は、聖霊のことで次のように語りました、『御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです(ヨハネ16:14)。』イエス様は、御霊に関してこうも言われました、『御霊は自分から語るのではない(ヨハネ16:13後半)。』御霊で満たされている人は、キリストの愛から来ているものでなければ、誰に対しても、何ひとつ語らないものです。自分の中から出てくるものは、言葉にしません。自分が言いたことがあって話すのではなく、主から何かを聞いて初めて話すのです。この意味で、聖霊に対してほんとうに従順であれば、日々、私たちが口に出す言葉は半分以下にまで少なくなり、そうすることで、主に栄光を帰すことになります。聖霊ご自身は言葉で主を讃えます。自分が聖霊で満たされていると言うなら、同じようにすべきではないでしょうか?

自分が知っていることを、人に言いたがるのは自然なことです。自分より成長した兄弟に教えてもらったことの一旦しか理解できていないのに、私たちはよくこんなふうに言います、『そのことはもう知っている。実際に、この通りにしてきた。』主のしもべが語る宣教を聞いた後、言われたことをさっぱり理解できない他の聴衆と自分が違うところを見せたいがために、わざわざ質問したくなることがあります。しかし、自分も何も分かっていないことに、気づいていません。話したくてたまらない気持ちは、知識の浅はかさの裏返しです。一方で、静かに生きることは、本当の知識ある人生を送っている証拠です。

気持ちが高ぶる中でも、言葉に出さず、静かなままでいるのは、簡単にできることではありません。周りが沸き立っているときほど、私たちは遠回しに、時には、はっきりと自分の利口さをひけらかすような言葉を出したくなるものだからです。騒ぎ立てる人たちに影響されず、気持ちを沈めたままでいられたら、とても素晴らしいことです!侮蔑の言葉を受けても、自分は陰口で返さず、静かな心でいるのは誰でもできることではありません。私たちの内なる人が穏やかなとき、人の前だけでなく、神の前でも静まっていられたら、どれだけ良いことでしょう。

平穏な生活とは、霊的に静まっているだけではなく、外の世界の状況に動かされないことも意味しています。言葉が少ないだけではないのです。この世には、性格的に口数少ない人もいます。しかし、霊の静けさを持って生まれてくる人は誰もいません。無口な性質の人も、心のうちは、他の人たちと同じくらい、あるいはもっとひどく、荒れ果てているかもしれません。しかし、心が静まっているものは、普通は言葉少ないものです。口を硬く閉じて、余計なことをしゃべらないようするのは、心の静謐とは違います。そこにはすでに、内なる動揺があります。心の奥深く十字架が働いていなければ、内から静まる道はありません。聖霊が十字架の真実を私たちの内なる人に知らせてくださり、主にすべてを支配していただいてはじめて、私たちは神の前に静まることができます。

私たちの主は、この見習うべき気質を持っておられた方でした。例えば、民衆が主を国王として祭り上げようとした時、主は荒野へと退きました(ヨハネ6:15を参照)。また、主はピラトの前に立たれた時、何も言いませんでした。何を訊かれても答えず、ただの一言さえも、口に出されなかったのです(マタイ27:12~14を参照)。外に向けて言葉を発しなかったのは、心のうちに揺らぐところがなかったからです。

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