2016年7月19日火曜日

心から心への言葉[42]御霊に従うためには

[42]御霊に従うためには
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

御霊が、私たちの精神の中に入らなければ、霊的な感性を持つことはできません。しかし、御霊が中に入っていなくても、私たちの心は、自分の考えを形作ることはできます。ただ、自分なりに心を用いればよいのです。キリスト者は、精神を通じて神と交わります。神は、精神のうちに住まわれるからです。精神によって、人間は神の御霊の動きを感じ取ることができます。これが、神と交わりを持ち、神を知り、神の御心を知ることを可能とするのです。救われるまでは、誰もが自分の心により頼んできました。しかし、救われた後も、自分の心だけを用いて、内なる御霊の動きに従うことをしなければ、キリスト者としての歩みにおいて、大きな間違いを犯すことになるでしょう。

神の御霊に従うにはどうすればよいか、キリスト者となって何年経っても学ぶことがなければ、御霊の導く手が自分に触れても気がつかないでしょう。御霊が、私たちの中に入り込んできてはじめて、御霊が触れていることを感じ取ります。そこで初めて、自分の心で考え、内なる御霊の動きの意味を理解することになります。しかし、御霊が中で動き始めても、個人的なことばかりに心を奪われていれば、すべては失われてしまいます。

私たちは、もともと賢い人ほど神に関わるものごとを早く理解できるし、生まれつき鈍い人は霊的な事柄を学ぶにも時間がかかると思いがちです。しかし、神のみ言葉のどこにも、そのようなことは言われていません。聖書にはこうあります、『それは、こう書いてあるからです。わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。』(第1コリント1:19)神は、賢いものもおろかなものも同じ高さに置かれます。どちらも神の前には役に立たないものです。どちらも、啓示が必要だからです。

神は、人間と相談する必要などありません。『だれが主の相談相手であっただろうか。』(ローマ11:34新共同訳)神は、ご自身の御心だけによって働かれるのであり、人がこうあるべきと思うように働くのではありません。神は、こう語られました、『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。』(ローマ9:13)また、神は、こうも言われました、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。』(15節)ここに現れているように、神は、ご自身の思うところのみによって働かれるのであり、人間的な論拠、視点や公平性にたって働かれることはありません。神に従うにあたって、自分の視点、論拠や公正さに基づいて行うなら、神に対して、人間の良識に従うよう求めていることになります。しかし、私たちは神の奴隷であり、塵に過ぎません。私たちにできるのは、神の御座の前にひれ伏すことだけです。神に言葉を返すことなど、どうしてできるでしょう?

すなわち、内なる御霊の動きにつき従う以外に道はないのです。私たちが立つべき土台は服従のみであり、対話ではありません。人が、神の話し相手になることなどできません。人の心は、いつも何かの論拠を探し求め、そこに意味があるか、どうかを考えています。しかし、神は人間に説得してもらうことなど欲していません。ただ、ご自身の御心を行うよう望まれています。主は、私たちと比べることすらできないお方だからです。神と人との間の距離は、あまりにかけ離れていて、測るすべもありません。どんな人間も、神の栄光に近づくことさえできません。神の栄光をほんのわずかでも垣間見たら、私たちは人間的な論拠などすべて投げ出して、主の前にへりくだり、ひれ伏すしかなくなります。ですから、人間の論拠という器官を用いながら、神に従い、御心を知ることはできません。まずは、別の器官を使わなければいけません。それは、人間の霊と言う器官です。

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