2016年7月10日日曜日

心から心への言葉[41]霊の敏感さについて

[41]霊の敏感さについて
ウォッチマン・ニー、『心から心への言葉』

パウロは旧約聖書からの言葉を引用していますが、引用のしかたは、当時のパリサイ人とは大いに違っています。パウロには御霊がありましたが、パリサイ人にありませんでした(ヨハネ5:39-40を参照)。霊的な事柄においては、『類似』とは、教えの内容が完全にひとつであることを意味していません。そこには、異なった内なる事実が込められているはずです。似ていることは、同一であることとも違います。彼らは完全に違っています。誰かの声色、身振りや教えまでそっくりに真似できるとしましょう。すべてがその人と同じように聞こえるかもしれませんが、しかしそこには、精神が欠けています。それは、文字にすぎません。キリスト信仰の基本となるのは、そこに御霊が臨在するかどうかです。

マタイ伝7章で、主はこう言われています。来るべき日、主の裁きの座で、一群の人々が御前に引き出されます。その人たちは、主の名によって熱心に預言をし、悪霊を追い出し、また、奇蹟をたくさん行なってきたのですが、主が彼らにかける言葉は、『わたしはあなたがたを全然知らない』(22~23節)。ここから分かるように、どれだけ熱心に主に仕え、主の権威の下に悪霊を追い出したり、大きな奇跡を行ったとしても、問題の核心は、私たちがどれほどのことを成したかではなく、その行いが肉から生まれたか、または、御霊から生まれたかにあるのです。霊的な心に感じるものは、すべて御霊から生まれたものです。主に受け入れてもらえるのはこれだけです。内住の御霊は、私たちの生まれかわった心に、何かが本当に御霊から来ているか、見極める感性を与えてくれます。御霊は、私たちを急がせたり、押さえつけたりし、また、歩かせることも、引き止めることもあります。霊的なものを感じ取る力があれば、御霊の道に沿って生き、仕えるにはどうすればよいか、理解できます。

これは馬の口に噛ませたくつわに例えると分かりやすいでしょう。乗り手は手綱を引いて、自分の思う方向に馬を進めます。乗り手が小さな動きを見せるだけで、馬は曲がるのか、まっすぐ進むのか、もっと早く走るのか、それとも、速度を落とすのか、ただちに理解します。手綱を引かれると、馬は手の動きを感じ取り、乗り手の行きたい方向に進みます。気づかないほど小さな手の動きで、乗り手は馬を思いのままに操ることができます。

同じやり方で、御霊は私たちの心の中を動かします。私たちがあまりに話しすぎると、主は懲らしめを与えます。道に迷いそうなときは、声をかけて教えてくれます。ある兄弟は証しの中で、救われるまでの自分は、晩餐の席でいつも注目の的だったと話しました。しかし、救われた後、彼はどの晩さん会に行っても注目を浴びることはなくなりました。話しすぎた日はいつも、家に帰った後でいやな気持ちになるからです。それまでの彼は、話を聞いてくれる人が多いほど、高揚した気分になったものでした。しかし今や、聞き手の数が多ければ多いほど、落ち込むようになったのです。これは御霊の導きでした。

あなたが、ある人に福音を伝えるように導かれたと感じたとしましょう。これは御霊がそうさせているためです。御霊が、その導きを伝え、あなたの霊のうちにそのような気持ちを引き起こしています。あなたがその導きに、どこまでも従いぬくなら、結果として、あなたは平安と喜びを感じます。私たちが生きて、御霊に仕えているときは、内なる御霊の動きに従っているだけなのです。走っている馬と同じです。馬は何をすべきか、自分で考えているのではなく、乗り手の指示にしたがっているに過ぎません。馬は、人の手の動きの意味をいくつか知っているだけですが、示されるとおり、前に進みます。私たちも、内に住まう御霊が動くのを感じとれたら、聖霊に忠実に従うことができます。

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