2022年6月4日土曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第21回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

第二十一回会合―『主の前に砕かれてこそ、真の礼拝』
Meeting 21 - It is Real Worship to be Broken Before the Lord

第二十一回会合
(1964年2月16日午後)

主の聖餐について、もう一度、簡単にお話ししたいと思います。三つの聖句をお読みします。

『私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」』(第一コリント11・23~25)

『神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。』(第二コリント5・21)

『まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。』(へブル9・14)

神は、罪を知らない方を罪とされた。キリストは傷のないご自身を神にささげた。この二つの文章は、お互いと矛盾しているように見えます。しかし、この二つが記しているのは同じ時に起こったことです。つまり、両方とも主イエス様の十字架のことを言っているのです。一つの文章は、罪を知らない方が、罪とされたと言っています。もう一つの文章は、主が傷のないご自身を神に捧げたというものです。このふたつは矛盾しているように見えますが、そこに矛盾はありません。ひとつの事実を二つの面から見ているのです。つまり、キリストの十字架における働きの二つの側面です。ひとつは、主ご自身が何であったかということ、すなわち、主が傷のない小羊であったという事実です。罪を知らないお方。それが、主ご自身の姿でした。絶対的に罪がなく、罪のしみすらありません。

もうひとつは、私たちの身代わりとなった主に何が起こったかということです。罪を知らなかった主が、罪そのものとされました。旧約聖書に、この主イエス様の二重の働きを示す型があります。それはレビ記の16章にあります。二匹のやぎの話です。この二匹のやぎは、祭司たちによって主の前に連れて来られました。二匹とも、しみも傷もないものでした。そのうちの一匹は、祭壇の上で全焼の捧げ物として神にささげられました。しみも傷もないやぎが神にささげられました。しかし、もう一匹、別のやぎがいました。このやぎも同じく、しみも傷もないものでした。しかし、祭司はそのやぎの頭に手を置いて、そのやぎの上に民の罪を告白し、すべての民の罪をそのやぎに移すというかたちを取りました。それから、祭司はそのやぎを抱き上げると、宿営地を通り抜けて神の臨在から離れてゆき、神の民が住む地の境界を越えて、荒れ野の中と連れてゆきました。民は皆、振り向いて祭司がこのやぎを連れ去るのを見ていました。彼らは、このやぎが見えなくなるまで、ずっと見つめていました。そこで祭司はやぎを放しました。祭司はやぎを不毛の地へと追いやりました。そして、やぎを置き去りにして、神の臨在のもとに戻ったのです。これが旧約聖書による、十字架の説明です。

まず、イエス様は罪のない供え物として、神に受け入れられました。一方では、私たちのために罪とされ、神の臨在から遠く離れたところへと捨て去られました。その瞬間、主は叫ばれました、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』あの捨てられたやぎが話すことができたら、荒野の彼方で、ただ一言、『見捨てられた』と叫んでいたでしょう。「私は見捨てられている。私は神と人のいるところから遠くへ引き話されてしまった。私は人からあざけられ、拒まれた。」これが、主イエスの十字架における御姿と御業のもうひとつの面なのです。

さて、そのことの関連で一つだけお話しします。過ぎ越しの祭りの夜、弟子たちと食卓を囲んだイエス様は一個のパンを取り、それを裂きました。そして、このパンを引き裂くと、「これは、あなたがたのために裂かれたわたしのからだです」と言われました。それから、主は杯を杯り、マタイによれば、「この杯は、わたしの契約の血であり、あなたがたのために流されるものです」と言われました。わたしの体が裂かれ、わたしの血が流される。これは何を意味していたのでしょう?私は今、事実の一面だけを語っています。イエス様は私たちの壊れてしまった人間性の代わりとなりました。罪は、私たち人間の本来の性質を壊すものです。罪は、私たち人間の性質をばらばらに引き裂きます。罪は私たちを崩壊させます。これが、世の始まりに起こったことです。

サタンがその活動を終えて、アダムが誘惑に屈した後、アダムの人間としての性質は、完全なものではなくなりました。そこにあったのは、壊された人間性でした。それまでは、人間の性質とは完全で、ただひとつでした。しかし、信じることをやめたこの不従順によって、この人間性は引き裂かれました。壊れてばらばらになってしまったのです。これが今の神の人類に対する見方です。イエス様の体が裂かれた時、主は私たちの壊れた人間性の身代わりになってくださいました。このとき、主はこう言っていました、「わたしは今、この壊れてしまった全ての人類を代表している。わたしは世の人間の引き裂かれた性質とひとつになる。わたしのいのちは、もはやわたしの中にはなく、死へと注がれている。』これは、罪とサタンの働きの効果です。そして、こちらの面から見れば、あの日、十字架の上で、イエス様が言おうとしていたこととは、「わたしの体は砕かれ、わたしの血は注がれた。今のわたしはすべての人間の状態を表していて、もはや完全ではないし、完璧でもない。」

さて、私たちが聖餐を受けるとき、常に覚えなければならないことがあります。裂かれたパンと杯を受けるとき、私たちは、自分自身も引き裂かれていると神の前で認め、神に告げていることを忘れてはいけません。私たちの中に完全さはありません。罪がその完全さを壊してしまったのです。神の目から見れば、私たちは壊れています。これがパンと杯を受けるときに、私たちが告げていることです。私たちは神の前で、自分が引き裂かれた人間であると認めているのです。私たちは、完全で傷のない完璧なものとして、神の前に立つことはできません。主は、私たちのために罪とされました。私たちが引き裂かれているために、主は裂かれました。イエス様は、私たち人間の壊されて、崩れてしまった性質の身代わりとされました。そして、神も御顔を背けなければなりませんでした。ちょうど荒れ野に残された身代わりのやぎが完全に見捨てられたと感じたように、哀れみの目を向けられることも、慰めの言葉をかけられることも、助けの手が差し出されることもなく、一人だけで神と人の住まう場所から遠く離れたところに置かれました。主イエス様は私たちの代わりに、あのやぎと同じような場所へと進まれて、私たちの壊れた人間性に対する神の裁きを受けたのです。それは、もう一つの面が、私たちにとっての真実となるためであり、その面とは、私たちが主にあって完全なものとされることです。私たちの壊れていたところはすべて、キリストにあって修復されました。遠く離れていた私たちは、近くに引き寄せられました。私たちは今、イエス・キリストへの信仰を通して、完全にされた者として神の御前に立つことができます。しかし、そのような者として、神の臨在の中に立てるようになるために、私たちは自分が壊れたものとして生まれてきたことを認めなければなりません。

新約聖書では、この二つがどのように結びあわされているか、お分かりですか?偉大な使徒パウロを例にとると、主イエス様に出会う前、彼は自分が非の打ちどころがないほど完全な存在であると考えていました。彼は自分こそ、神の臨在の中に立つ者と自負していました。自分に悪いところはひとつもなく、すべてが正しいと、彼は信じていたのです。タルソのサウロに、欠けたところなどひとつもありませんでした。彼が主イエスに出会った時、その状況は変わりました。彼が最初に気づいたのは、自分は神の臨在の中に立つ資格がないということでした。神の前に、彼は壊れた人でした。完全どころではなかったのです。このことが、彼の人生のひとつの側面であり、パウロは生涯を通じて、この事実を常に念頭に置いて生き続けました。彼は自分自身の弱さについて、何度も繰り返して語っています。彼は言いました、「私は弱い者ですが、自分の弱さを誇ります。」私は、身を裂かれた主イエス様の中に入った。私は、主の砕かれた体を分かち合った。私自身の中には、何の価値もない。割れた器のようなものだ。しかし、別の面から見れば、主はこの男をどれだけ祝福してくださり、どれだけこの人とともにいてくださったでしょう。そう、彼は今や神に受け入れられています。今では、彼は主の前にまっすぐ立つことができたのです。これが二つの側面です。

あなたも私も、主とともに立ちたいと思うなら、本当に神の助けを受けたいなら、そして、十字架が持ついのちという側に立って、主の臨在の中へと入り、主に礼拝を捧げたいと望むなら、私たちは皆、何よりも先に、自分自身が壊れていることをはっきり意識する必要があります。神が用いることができるのは、本当に砕かれた男と女、つまり、自分が非常に貧しい存在にすぎないとことを認めるようになった者たちだけです。その者たちには、本当の意味で砕かれた霊があります。彼らこそ、主のこのすばらしい言葉が指す者たちです、「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれた者だ」(イザヤ66・2、詩篇51・17)。

さて、このすべてが神への奉仕と関わっていることに注意してください。レビ記に書かれていたことは、神への奉仕であり、すべてが神に捧げられる奉仕なのです。そして、それが意味しているのは次のことです。すなわち、私たちが主から祝福を受けるためには、まず、主が満足されなければなりません。主へと捧げられたものがあってはじめて、主から受けることができます。私たちが砕かれることが、私たちから主への捧げものです。主の前で砕かれることが真の礼拝です。砕かれて悔い改めた霊こそ、真の礼拝の霊です。それが受け入れてもらえる奉仕です。それが神への真の奉仕です。そして、神が満足されるとき、私たちは祝福の中に入ることができます。高慢な人、自己満足した人、自分の力だけで立っている人は、祝福を受け継ぐ人にはなれません。その人は、主に用いられることはありません。主に本当に仕えることができる人ではありません。仕えることができるのは、目を天に向けようともせず、頭をたれて、「神さま、こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:11-13)と言う人です。この人が、義と認められて家に帰ります。この人は、主から認められ、祝福されています。あなたは聖餐にあずかるとき、このことばをいつも覚えていますか?パンが裂かれるとき、心の中でこう言っていますか、『これは砕かれた私だ。主は私のために裂かれた。主は、私自身として裂かれた。私自身も、神の前で砕かれた。私たちを完全なものとするために、主は引き裂かれたのだ。』

すなわち、私たちが裂かれたパンを受け取るとき、私たちは自分が壊れたものであることを神の前で証しし、認めているのです。しかし、そうするのは聖餐の場だけではありません。聖餐は私たちの生活全体の中心です。私たちの生活のすべてが主のもとへと向けられています。主の聖餐は、生活の中の毎日、毎時間において意味を持つものでなければならず、その意味とはこのようなものです。すなわち、私自身は神の前に貧しく、砕かれた者だ。そして、イエス様が私を完全にしてくださるからこそ、私は神の臨在の中に住まうとができる。『これはあなたがたのために裂かれるわたしのからだです。』

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