2022年6月17日金曜日

『わたしたちが一つであるように・・・』第22回会合

T・オースティン・スパークス
『わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるために』フィリピン、マニラ、1964年
That They May All Be One, Even As We Are One.
Manila Philippines, 1964

第二十二回会合―『大祭司の祈り―父よ、すべての家族がわたしとともに、そこにいられますように』
Meeting 22 - The Prayer of Our High Priest: Father, I Want My Whole Family to be There With Me

第二十二回例会
(1964年2月18日 午後)

引用聖句:ヨハネ17章
新約聖書には、主イエス様が弟子たちに与えた祈りがもう一つあります。その祈りは一般に主の祈りと呼ばれているものです。『天にいます私たちの父よ』という言葉で始まる祈りを皆さんも覚えているでしょう。しかし、この祈りは主の祈りではなかったのです。この祈りは、主の祈りではあり得ません。主が弟子たちにこの祈りを与えたのは、彼らが祈る筋道を示すためでした。それを主の祈りと呼ぶのは正しくありません。主イエス様が、御父に向かって、『私たちの負いめをお赦しください』と言うことはありません。主には、赦しを求める必要などないからです。そうなれば、主が罪人であったことになります。そして、主の中に、罪はありません。真の主の祈りは、私たちが今、読んだものです。ヨハネの福音書、十七章こそ本当の主の祈りです。ここで、主の祈りから、私たちがどのように祈るべきかということを学ぶことができます。ですから、この祈りを通して、主に従うことにしましょう。

ほとんどの人が知っていると思いますが、この祈りは、「主イエス様の大祭司の祈り」と呼ばれてきました。その名称が正しいと私が思うのは、この祈りの中で、主イエス様が旧約時代の大祭司の歩みを踏襲しているからです。旧約時代の大祭司は、至聖所へと入って行く用意をし、中で神に会いました。大祭司は、祭壇から血を取りました。大祭司は、祭壇から火を取りました。大祭司は、香炉を取って、中に火を入れ、それから、火のついた甘い香を香炉に載せると、外の庭から聖所を通り抜けて、そして、垂れ幕を通って、至聖所に入りました。そこで大祭司が、香炉を贖いのふたの前に振りかざし、血を贖いのふたの上に振りかけると、甘い香りが神へと立ちのぼりました――それは、神に受け入れられるもの、神によろこばれるもの、キリストの香りがしました。

さて、ヨハネ17章の位置づけから、そこでイエス様は、同じ道筋を歩み始めたことがわかります。主はいけにえの大祭壇、つまり、十字架に向かおうとしているのです。主は、十字架からご自身の血を取り上げようとしています。主は、十字架から裁きの火を受けようとしています。そして、主は垂れ幕を通り抜けようとしています。垂れ幕とは、主のみ体であると言われています。主のみ体は、至聖所の垂れ幕のように、上から下へと引き裂かれようとしています。そして、そのみ体が裂かれた主は、霊において、御父の臨在の中へと入ろうとしています。主は今、霊において、神のおられる天の至聖所へと向かっているのです。そして、その神の臨在の中で、証しの血を振りまくことになります。神の臨在の中で、主は完成された働きのかぐわしい香を捧げ、それは神によろこばれるものとなります。そして、そのすべてがこの祈りに集約されているのです。私たちの主イエス様は、大祭司として祈りながら、天の聖所へと移っており、そして、主ご自身を代理人とする民のために祈っています。主は、外に残していく家族のために祈っています。

これが家族の問題であることにお気づきでしょうか。主はご自身の祈りを、『父よ』という言葉で始め、『あなたの御名』で祈りを終えています。このふたつ――御父とその御名――が家族を作り上げます。さて、主が家族のためにどう祈っているかに着目してください。御父のもとへと向かうとき、主はまず、『わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます』、すなわち、彼らの代わりに『わたし自身を聖め別ちます』と言っています。『聖別』という言葉の意味を調べてみますと、これは、聖とされるという意味を持ったことば、身をきよめるという意味を持つことばです。神のために、完全に自分を切り離すという意味です。わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ち、自分自身を神へと切り離します。

それが効力を持つ祈りの第一の基本であることに、皆さんも注意してください。これが主イエス様の祈りの基本であるなら、それ以上に私たちの祈りの基本でもあるべきです。主が、「わたしは、彼らのため、全てを神へと聖め別ちます。わたしは、完全に世から離れ、神へと分かたれています。わたしに関わることのすべては神にあります」と言ったなら、それが主の祈りの基本であり、私たちの祈りの基本でもあります。私たちが祈りを始めるとき、あるいは、祈りの中で主のもとに来るときはいつでも、聖霊はこう問われるはずです。あなたは何かを隠していませんか?自分の中に何かをため込んでいませんか?個人的な関心から祈っていませんか?それとも、主にすべてを明け渡していますか?主にとってそうであったように、あなたにとっても、すべてが祭壇の上に載せられていますか?あなたがたの人生の動機はただ一つ、すべてを主のために捧げること、自分を主のために、家庭を主のために、仕事を主のために、人生のすべてを主に捧げることです。これが、主イエス様が、『わたしは、わたし自身を聖め別ちます』と言われたことの意味です。それが、力を持つ祈りの第一の基本です。主イエス様がそう言ったのは、家族に対して模範を示すためでした。

主イエス様が、ご自身の家族が聖別され、分かたれること望んだ方向、ことがらは三つあり、それがこの祈りの中に示されています。第一は、主がこのことばに込めたことです、「わたしは、わたし自身を聖め別ちます――わたし自身を。わたしは自分を自分の意志から切り離します――自分の関心から切り離します。」主イエス様は人間としての性質と神としての性質の両方を持っていて、地上での生活のあいだ、この問いがいつも主の中に生じていたことが分かりますね。神の性質ではなく、人間としての性質による生き方を取るように惑わされたのではないでしょうか。それは罪から来る人間の性質ではありませんが、人間的な性質でした。荒野での悪魔の誘惑は、人と同じ性質を持つ人間としての土台まで、主を降りて来させようという誘惑だったのですね。そして、主が洗礼を受けたすぐ後の誘惑から、十字架に至るまで、この誘惑との戦いが続きました。ゲッセマネの園では、この戦いがありました、『わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを。』主のこの願いは、罪あるものではなくても、人間的な願いでした。そして、主には、選択する力がありました。主の中には拒絶する力があり、十字架にかかるとき、この選択をすることは恐ろしい戦いでした。園での戦いも非常に激しいものでした。それは、主が、『わたしの願いとあなたのみこころ』と呼んだもののあいだの戦いでした。

さて、このように主イエス様の生涯が戦いであったのなら、私たちには、それ以上のものとなります。罪から生じる願いを全く持っていない方がそうであったのなら、罪からくる願いを持つ私たちにとっては、より激しい戦いとなるはずです。だからこそ、主は言われたのです、「わたしは、わたし自身を聖め別ちます。わたしは人間としての自分のあり方から離れ、神の側へと進みます。わたしは自分の地を離れ、神の地に入ります。」真の祈りには、このような思いが含まれています。もし私たちが生まれたままの自分の土台に立っていたら、祈りが神に通じることはないでしょう。たとえ自分自身や自分の意志に反していても、私たちは神の土台に立たなければなりません。だから、主は、「わたしは、わたし自身を聖め別ちます。わたしは自分の全てをこの十字架の祭壇に捧げます」と言ったのです。これが、御父のもとに上っていくとき、主が捧げた祈りでした。

聖別が意味する二番目のことに、もうお気づきですか?主が家族のために祈ることばを聞いてください。『わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、守ってくださるようにお願いします。』主は、世が聖別に対抗するもっとも強い力の一つであることをご存じでした。この世は、私たちに何かを主から隠したい気持ちを起こさせる非常に大きな力ではないでしょうか。この祈りの中で、主イエス様は、世が神にとって敵であると明言しています。この世は、神の民の霊的な生活に対する敵です。この祈りを記録したヨハネという男は、後にこう書き留めています。世の友となりたい人は、自分を神の敵としています。つまり、聖別とは、私たちがこの世にとどまりながら、霊的には世から離れることです。『わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません!』つまり、主にとって、また、私たちにとって、聖別とは私たちの心の中から世が切り捨てられることを意味しています。そしてこれもまた、真の祈りの大きな原則です。多くの祈りが敗北し、失敗に終わるのは、私たちの生活の中にあまりにも多くの世のものがあるためだと私は思います。

そして、三番目に、主が聖別について言われたことばがこれです。「彼らを、悪い者から守ってくださるようにお願いします。」悪い者はいつもすぐ近くにいて、いつも悪い働きをしようとしており、いつも私たちを自分の方へと引き込んで、陥れようとしています。悪い者はいつも、私たちを誘惑しようとしています。イエス様は、『父よ、「彼らを悪い者から守ってくださるように」祈ります』と言われます。使徒パウロがエペソ人への手紙を書いたとき、この大いなる手紙の最後の章は、悪い者や悪の力との戦いに満ちた世界へと私たちを引き入れていますね。そして、パウロはその戦いは祈りの中にあると言っています。パウロは、悪の軍勢との最大の戦いは祈りの戦いであると言う意味のことを言っています。効果のある祈りを捧げるために、私たちは悪い者に勝利する位置に立たなければなりません。それが、祈りにおける主の基本です。

私は、ここまで簡潔に述べてきました。もっと多く語りたいことはあるのですが、それでも祈りのすべてではありません。主は、この家族についての御父への願いを吐き出すとき、御父に二つのことを求めています。『彼らを、わたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。』主が行くところに、私たちも行くのです。では、主はどこに行くのでしょう?主は言われました、わたしは御父のもとに行く、そして、わたしの家族全員がわたしとともに、そこにいてほしい。主がそう祈らなければならないのは、主が祈らない限り、彼らはそこに行けないからです。私たちが御父のもとに行けるのは、ただ大祭司の祈りのゆえです。これは主の家族に与えられた大いなるもののひとつです。

皆さんのことは分かりませんが、私は祈りの中で主に心を注ぐことがよくありますが、祈れるだけのことを祈り終えたときは、こう付け加えずにいられません、「しかし、主よ、結局のところ、私を助け出してくれるのは、私の祈りではなく、御子の祈りです。』主はペテロに言われました、『シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願いました。しかし、わたしは、あなたのために祈りました。』そして、自分の祈りの力を完全に信じていた主は言いました、「わたしは、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:31~33)。ペテロよ、あなたはこのすべてを乗り越えられる。あなたは向こう側まで達することになる。そして、これは今の私たちに対しても同じです。『この大祭司はいつも生きていて、私たちのために、とりなしをしておられる』(へブル7:25)。そして、私たちは、自分で思うよりもずっと多くを主の祈りに負っているのです。

そして、この後に祈りはこう続きました。『わたしの栄光を、彼らが見るようになるためです!』これはとても美しいことです。彼らは、わたしが受けた恥辱を見ました。彼らは、わたしがあざけられ、拒絶されるわたしを見ました。彼らも同じ拒絶を味わうことになるでしょう。彼らは、わたしが今、受けている屈辱の幾分かを知ることになります。しかし父よ、わたしは彼らにその後に起こることを見て欲しいと思います。彼らに、これだけの拒絶と屈辱と苦しみが、最後には何をもたらすかを見て欲しいのです。わたしは彼らがわたしの栄光を見ることができるように祈り、そして、わたしの栄光を見たとき、彼らは、「全ては意義があった」と言うはずです。あの苦しみと拒絶は、価値あるものでした。

すなわち、ここで主が私たちのために祈られた祈りは、私たちが主の栄光を見るという輝かしい結末を迎えることになるのです。さて、初めに申し上げたように、ここで述べてきたことは全て祈り方のはなしです。この祈りのことで、私が語らなかったことはたくさんあります。主は家族のために、彼らが一つであるようにと祈りました。これは確かに祈らなければならないことがらであり、おそらく、これまでの歴史上、かつてなかったほど、私たちは今日、主の民が一つであるようにと、祈ることが求められています。さて、この短いお話しはここで終わりにしましょう。主と同じように祈りながら、大祭司と同じ道を通って、御父の臨在の中に入っていきましょう。

『それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。』(ヨハネ17・21、22)

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