2017年3月5日日曜日

神前有能[第11日]信じて祈りなさい

ウォッチマン・ニー
神前有能
第2部、あなたが祈るとき。

第11日
信じて祈りなさい


凡て祈りて願ふ事は、すでに得たりと信ぜよ、さらば得べし。(マルコ11:24大正改訳)
祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。(マルコ11:24新改訳)


新しい信者の祈りの生活は、おもに良心と信仰に結びついています。祈りとは深遠なものですが、新しい信者にとっては、祈りはまだ、人間の良心と信仰の問題でしかありません。彼らの良心が、神の前に背くところのないものであれば、信仰は容易く強められます。そしてもし、彼らの信仰が十分強ければ、その祈りも、容易く答えられるでしょう。従って、彼らには信仰を持つことが必要です。

信仰とは何でしょう?それは、祈りの中で、疑いをはさまないことです。私たちの祈りをとどめるのは神です。神に祈ることを許してくださるのは神です。私たちが祈れば、神は答えるしかないのです。主は言われます、『たたきなさい。そうすれば開かれます。』叩いても、主が拒むことなどあるでしょうか?主は言われます、『捜しなさい。そうすれば見つかります。』捜しても、見つからないことなど、あるでしょうか?主は言われます、『求めなさい。そうすれば与えられます。』求めても与えられないことなど、決してありません。神とは誰だと、私たちは思っているのでしょう?神の約束は、どこまでも誠実で、信頼できるものであることを知るべきです。

私たちはすでに数年間にわたって主を信じてきたかもしれませんが、信じることがとても難しかった時が、誰にもあったのではないでしょうか。これは、信仰が神の知識に基づいているからです。神に関する知識の深さは、私たちの信仰の深さを測るものさしです。信仰を強めるためには、神をよりよく知る必要があります。救いは、知ることから来ます。こうして、救われ、神を知ったからには、信じるのは容易なことです。求めれば、神は答えてくれます。信仰に満ちた者となるために、初めから学び直しましょう。感覚や思考に頼って生きてはいけません。信仰によって生きることを学んでください。神を信じることを学ぶにつれ、祈りが答えられていることを見出すでしょう。


信仰は神の御ことばを通して来ます。神の御ことばは、いつでも取り出して使える現金のようなものだからです。神の約束とは、神の働きのことです。約束は、神の働きとは何かを教えてくれ、また、働きは神の約束を現わすものです。神の御ことばを信じて、疑いを持たなければ、私たちは信仰の中にとどまり、神の言われた全てが、信頼できることを知るでしょう。私たちの祈りは答えられるはずです。

どうしても必要な条件が、もうひとつあります。人は信じなければいけないということです。信じていなければ、祈りには効果がありません。マルコ伝の11章12~24節に語られた出来事は、祈りにおける信仰の大切さをはっきりと示しています。主は、弟子たちと一緒にベタニアから出てこられました。旅の途中、主は空腹を覚えられました。遠くにいちじくの樹を見つけ、主はいちじくの実はありはしないかと見に行かれましたが、葉のほかは何もないのに気づかれました。そこで主は、その木を呪って言われました、『今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。』翌朝、通りがかりに見ると、いちじくの木は根まで枯れていました。弟子たちは驚きました。そして、主は答えられました、『神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、「動いて、海にはいれ。」と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』

祈っているときは、信じなければいけません。信じれば、受けるからです。信仰とは何でしょう?信仰とは、自分が祈ったものは必ず受けると信じることです。

私たちキリスト者は、信仰について誤った見方をしていることがよくあります。主は、すでに得たと信じる者が得ると、言われています。しかし、キリスト者の方は、得られるだろうと信じる者が得ると、思い込んでいます。つまり、ここに2種類の異なった信仰があります。主は、ここで『得る』と言うことばを二回、使われています(中国語の聖書でも同様)。はじめは、『すでに得たり』、そして、『さらば得べし』です。しかし、多くの信者は、『さらば得べし』の方に、信仰を結びつけています。私たちは願ったものが、得られるであろうと信じながら、主に祈ります。山が動いて、海に入るのだろうと信じています。その信仰は実に立派なものに見えます。しかし、私たちは、信仰を、『すでに得たり』から切り離し、『さらば得べし』に向けてしまったのです。それは、主が語る信仰とは違うものです。聖書が語る信仰とは、『すでに得たり』と結びついたものです。それは、『さらば得べし』より、ずっと確実なものです。

では、信仰とは何でしょう?信仰とは、神が既に自分の祈りを聞かれたと、断言できるようになった時点で与えられるものです。神は私のことばを聞くはずだと言えることではないのです。ひざまずいて祈り、『神よ、私の祈りを聞いてくださったことを感謝します。これが成ったことを感謝します』と言えるとしたら、これこそが信仰です。『すでに得たり』に結びついているからです。ひざまずいていた場所から立ち上がって、神は自分の言葉を聞くだろう、神はこの言葉を聞くはずだと信じていると話すだけであれば、どれだけ確固たる信念があろうと、そこには何も起こりません。あなたの決断は、何も生み出しません。

主は言われます、『すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』こうは言われません、『いずれは受けるだろうと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』兄弟たちよ、これがカギです。真実の信仰とは、既に『それは成った』と知っていることです。私の祈りを聞いてくださった神に感謝します。


【訳者注】マルコ11章より、『祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります』という御言葉が引用されています。この節は、中国語の聖書では、『受けた』、『受ける』のように同じ言葉が繰り返し、使われているらしく、作者は、それに基づいて論を展開しています。日本語の聖書では、大正改訳が、『凡て祈りて願ふ事は、すでに得たりと信ぜよ、さらば得べし、』となっていて、『得る』という言葉が二回使われているので、この訳を使いました。

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