2017年3月20日月曜日

神前有能[第6日]『だから、こう祈りなさい』(2)

ウォッチマン・ニー 
神前有能
第1部、だから、こう祈りなさい。

第6日
『だから、こう祈りなさい』(2) 

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』マタイ6:33

『だから、こう祈りなさい。天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。』マタイ6.9~13 

いわゆる、『主の祈り』の初めの部分には、神に向けられた三つの心からの願いが含まれています。

一番はじめの願いはこれです、『御名があがめられますように。』神の今の願いは、御名が褒め称えられるよう、私たちが祈ることです。御使いたちの間では高く褒め称えられている主の御名を、人はみだりに唱えています。人が御名をむなしく口にするときも、主は天から怒りの雷を落とすことはしません。代わりに、そこにおられないかのようにご自身を隠されます。主は、御名がむなしく使われたという理由で、人に苦しみを与えたことはありません。しかし、主は子供たちにこう祈らせます、『御名があがめられますように。』私たちが神を愛し、神を知っていれば、その御名が褒めたたえられることを願うでしょう。主の御名が、むなしく唱えられるのを聞けば、心を痛めるはずです。私たちの願いは強まってゆき、次第に熱心に祈るようになります、『御名があがめられますように。』それは、誰もがその名をあがめ、主の御名をみだりに唱える者がいなくなる日まで続きます。



『御名があがめられますように。』神の御名は、そのお方に言葉をかけるときに使う肩書きではありません。私たちが主から受ける偉大なる啓示そのものです。聖書の中でこの御名は、人の前に神ご自身が現れたことを知らしめ、人が神を知るために用いられています。御名は神の性質を示し、その完全さを現わします。これは人の魂に理解できるようなものではなく、主ご自身がそれを現してくださることが必要です(ヨハネ17:6を参照)。主は言われます、『そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。』(ヨハネ17:26)神の御名を知るためには、主が繰り返し、現れてくださることが必要です。

『御名があがめられますように。』これは、私たちの心の願いだけではなく、御父への礼拝を為すものでもあります。神を褒め称えなければなりません。祈りは、賛美と共に始めるべきです。哀れみと恵みを求める前に、まずは、神をあがめましょう。主に、その完全さへの賛美を受けていただき、その上で、主の恵みを受けることにしましょう。私たちの祈りのもっとも重要な核心となるところは、神が栄光をお受けになることです。 

『御名があがめられますように。』神の御名は栄光と結びついています。『わたしは、イスラエルの家がその行った諸国の民の間で汚したわたしの聖なる名を惜しんだ。』(エゼキエル36:21)イスラエルの人々は神の御名をあがめず、むしろ、行く先々で、その御名を汚しました。それでも、神はその聖なる名を惜しんだのです。主は、この聖なる願いを、私たちに求めています。言葉を換えれば、神は、私たちを通してその御名が讃えられることを願っているのです。神の御名がはじめに一人一人の心の中であがめられ、それから、私たちの願いが深められてゆきます。十字架が深く働いてはじめて、私たちは神の御名を讃えることができます。そうでなければ、それは聖なる願いではなく、ただの不可思議な妄想にしか見えないでしょう。そうなったら、どれだけの手助けと聖化を受ける必要があるでしょう!

二つ目の願いはこれです、『御国が来ますように。』これはどのような御国でしょう?文脈から判断して、天の御国をさしています。『御国が来ますように』と祈ることを教えられる中で、主は、神の御国は天に存在し、この地上にはないこと、そして、私たちは天の御国の境界を押し広げて地上に至らせてくださいと神に祈るべきであると語っています。聖書の中で、神の御国とは、地理的な意味だけでなく、歴史的な意味でも語られています。地理とは空間的な広がりであるのに対し、歴史とは時間的な広がりの問題です。

聖書によれば、神の御国の地理的な広がりは、歴史的な広がりを超えています。『わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら』と、主イエス様は言われました、『もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』(マタイ12:28)これは、歴史的な意味でしょうか?そうではなく、地理的な意味です。どこであれ、神の御子が、神の御霊によって悪霊どもを追い出すところには、神の御国があります。すなわち、ここで言われている神の御国とは、歴史的な意味ではなく、地理的な意味で語られています。 

『御国が来ますように!』これは教会の願いだけでなく、教会の責任でもあります。教会は神の御国を地上に来たらせなくてはなりません。これを実現するために、教会は、自分自身を天から来る制約と支配にゆだねて、あらゆる犠牲を払う覚悟を持つ必要があります。それによって、天の権威が地上へと流れ出す通り道となるためです。教会が天の御国を来たらせようとするなら、サタンの策略を知っておかねばならず(第2コリント2:11を参照)、また、教会は悪魔の策略に対して立ち向かうことができるように、神のすべての武具を身に着けることが必要です(エペソ6:11)。神の御国が降りてくるところでは、悪霊たちはその場所から追放されます。神の御国が地上の全ての場所を完全に支配するとき、サタンは底知れぬ所に投げ込まれます(黙示録20:1~3を参照)。

 三番目の願いは、『みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。』ここに、神の御心は、天で行われていますが、地上では、全てが成されてはいないことが示されています。この方は神であり、その御心がなされることを止めることなど、誰にできるでしょう。神を妨げるものとは人でしょうか、それとも、サタンでしょうか。実を言えば、神を妨げることができる者などいません。では、何故このように祈るのでしょう。この質問に答えるためには、祈りの原理をはっきりと理解しておく必要があります。

聖書全体を通して、真理に関わる基本的な原理がいろいろと語られており、その中に、祈りの原理もあります。聖書の中に祈りがあるということ自体が、何よりすばらしい事実ではないでしょうか。神が我々の必要をあらかじめ知っておられることは、聖書を見れば分かります。それではなぜ、私たちは祈らなくてはならないのでしょう?神は全知なるお方なのですから、人間的な論理によれば、人が祈る必要など、ないはずではありませんか!しかし、ここが聖書の驚くべきところですが、神がどれだけ人の祈りを求めているか、そこに書かれているのです!祈りとはこういうことです。すなわち、神が何かをしようと思うとき、一人でそれを為すことは望まれません。地上にいる人がそれを祈るまで待ったうえで、それを行われます。主にはご自身の考えと心がありますが、それでも、人が祈るまで待っています。神が私たちの求めるものを知らないわけではなく、私たちが祈ってはじめて、必要を満たしてくださるのです。誰かが祈るまで、主が動くことはありません。

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