2017年3月11日土曜日

神前有能[第15日]三度、祈りなさい

ウォッチマン・ニー
神前有能
2部、あなたが祈るとき 

15 
三度、祈りなさい 

いつでも祈るべきであり、失望してはならない。(ルカ18:1 

イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。(マタイ26:44 

このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。(第2コリント12:8 

祈りのことで、知っておくべき奥義がひとつあります。主に向かって三度、祈ることです。『三度』とは言っても、三回に限定されるわけではなく、もっと多くてもよいのです。主イエス様がゲッセマネの園で神に三度、願ったところで、祈りが聞かれ、そこで止めました。パウロも三度祈り、神のことばを与えられたところでやめました。ですから、祈るものは皆、三度という原理を心にとめるべきです。ここでいう『三度』とは、一回目、二回目、そして、三回目の祈りをしたところで、やめなければいけないという意味ではありません。休むことなく祈り続け、神に聞かれるまで、辞めてはいけないということです。

この三回という原理には大きな意味があります。この原理は、個人的な祈りの中に限って、気を付けるべきものではなく、祈り会の中でも心に留めておく必要があります。祈り会で捧げる私たちの祈りが、教会の務めを果たし、何であれ神が望むことを成し遂げることを望むなら、この大切な原理をよく覚えておくべきです。



三回祈る原理とは、徹底的に祈ること、神の御心がはっきり分かるまで、神の答えがあるまで祈り続けることです。祈り会の中では、あることについて、他の兄弟がすでに祈ったから、自分の祈りは必要ないなどと考えてはいけません。例えば、ある姉妹が病気になり、その人のために祈るとしましょう。一人の兄弟がその姉妹のために祈ったら、自分は重ねて祈る必要はないでしょうか。そうではなく、その兄弟が一回目の祈りをした後、私が二回目に祈り、そして、他の誰かが三度目の祈りをしてもよいのです。どんな祈りも、三人が祈らなければいけないということではありません。祈りは、重荷と共に捧げられなければなりません。時には、五回、十回と祈らなければいけないこともあります。大切なのは、重荷が取り去られるまで、祈りが続けなければいけないことです。これが三度祈ることの原理です。これが、祈り会がうまく行くための奥義です。 

草の上を跳ねるイナゴのように、祈りがあちこち飛び回ることのないようにしましょう。はじめの課題をしっかり祈り終える前に、次のことに飛びついたり、二つ目の課題も祈り切っていないのに、またはじめの祈りに戻ったりすることが見られます。こんなふうに、あちこち飛び回りながら祈っても、重荷が降りることはありませんし、そこに、神の答えを得ることも難しいでしょう。そのような祈りは、ほとんど役に立たず、祈る者の務めを果たすこともありません。 

私たちは、いつまでこんな祈りを続けるのでしょうか?一度、祈るだけでよい祈りも、確かにたくさんあります。しかし、サタンを攻撃する祈りは、多すぎるのではないかと恐れる必要はありません。主がこのたとえ話をされた理由は、私たちが、『いつでも祈るべきである』(ルカ18:1)ことにあるます。この裁判官は、やもめのために裁判をしますが、それは正義のためでも、他の理由のためでもなく、何度も来る彼女がわずらわしかったからです。この裁判官はこうつぶやいています、『この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』同じように、このような祈りは、休むことなく捧げ続けるべきです。敵に対するこうした祈りは、特別に必要が生じた時に限って、口にするようなものではなく、生きる上での姿勢としていつも守り、また、平穏な日常生活の中でも、とどまることなく心の中で吐き出すべきものです。主イエス様は、このたとえ話を説明する中で、こう尋ねました、『まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。』したがって、このような祈りは、夜も昼も休むことなく、続けなくてはいけません。私たちは絶え間なく、神の御前に、敵を訴えるべきです。黙示録12章で、サタンは『日夜彼ら(兄弟たち)を私たちの神の御前で訴えている(10節)』とあるからです。悪魔が私たちを日夜、訴えるなら、私たちも日夜、悪魔を訴えるべきではないでしょうか?

これは正当な訴えであり、悪魔が行うのと同じように、私たちも悪魔に相対すればよいのです。このやもめの嘆きは、相手が裁判を受け、罰せられて、彼女の悲しみの報いを受けるまで続きました。この世界を奪おうとするサタンの試みが続く限り、そして、サタンが底知れぬ所に府印され、燃える火の海に投げ落とされる日が来るまで、私たちも対抗する祈りをやめることはありません。神が私たちの敵を裁き、サタンが天からのいなずまに撃ち倒されるまで、私たちの祈りが終わる日は来ません。私たちが悪魔への深い憎悪を表すことこそ、神の願いなのです。悪魔にはもう十分、苦しめられてきたのではないでしょうか!?私たちが一歩進むごとに、悪魔は憎しみをむき出してきたため、私たちは体にも心にも、ひどい傷を負ってきました。それなのに、なぜ、悪魔の迫害に言葉も祈りも出さずに堪えているのですか?何故、未だに、神の御前に立ち上がって、祈りの言葉で悪魔を非難しないのでしょう?私たちは、正当な裁きを求めるべきです。どんな時も、神のそばに立って、敵を告発し、長い間、抑えつけられてきた怒りを解き放とうではありませんか?主イエス様は今日も、祈りで悪魔に立ち向かうように呼びかけておられます。

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