2017年1月8日日曜日

神前有能[第3日]誰のために祈るのか

ウォッチマン・ニー
神前有能

第1部、だから、こう祈りなさい。

第3日
誰のために祈るのか

『何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。』第1ヨハネ5:14

初めに注目すべきは、本当に祈る人とは、神にいつも近づているだけではなく、その願いがいつでも神の御心に入る人であること、すなわち、その考えがいつも神の考えに入る人であることです。これは、祈りにおける最も大切な原理です。

私たちの必要のみから生まれるような祈りもあります。主がそのような祈りを聞かれることも、時にはあるとはいえ、その祈りを受け入れてくださることはほとんど、または、全くありません。この聖句に注意してください、『主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送ってやせ衰えさせた』(詩篇106:15)。この一節が意味するものは何でしょう?イスラエルが神に、欲望を満たして欲しいと泣き叫んだとき、神は答えとして、彼らが望んだもの全てを与えられましたが、それによって、彼らは神の前に弱められることになりました。ああ、確かに、時に神は、あなたの祈りを聞き、あなたの必要を満たさんがために、その祈りに応えますが、そのときはまだ、主ご自身の御心は満たされていません。そのような祈りには大した価値はないことを理解しましょう。

しかし、別の種類の祈りもあり、それは神ご自身の必要から生まれるものです。これは神の祈りであり、神から始まる祈りです。そして、そのような祈りは最も価値あるものです。このような祈りを持つために、祈る人は、ひとりで何度も神の御前に来るだけでなく、自分の願いが神の御心へと入ることを許し、また、その思いが神の思いの中に入らければなりません。このように日常的に主の臨在の中に生きている人は、主の御心と願いを知ることが許されています。そして、その御心と神の願いが、実に自然なかたちで自分自身の望みとなり、その人は祈りの中で、それを表すようになります。

ああ、私たちは、どうしてもこの二番目の種類の祈りを学ばなければなりません。私たちは未熟で、弱い者ではありますが、それでもなお、神に近づき、神の御霊によって、自分の思いを神の御心へ、自分の考えを神の考えへと近づけることが認められているのです。神の御心と考えに少しでもふれれば、神がどのように働かれるか、神が私たちに何を求めているのか、少しずつ分かってきます。こうして、私たちが知り、その中に入り込んだ神の御心と考えが、徐々に、私たちの内で自分の祈りになってゆきます。そして、そのような祈りには大きな価値があります。

神の思いの中に入り、神の御心と目的にふれたことで、ダニエルは自分の心の中に、神と同じ望みがあることに気づきました。神の切なる願いが、ダニエルの中に再生され、ダニエルの願いとなりました。すなわち、ダニエルが、涙とうめきとともに、祈りの中で自分の願いを語った時、彼は神の願いを言葉にしていたのです。私たちはこのような祈りをしなければなりません。それが、本当に神の心に触れるからです。それ以上の言葉は要りません。私たちに必要なのは、より多く、主の心に触れることです。神の御霊に、神の心の願いへと導いてもらいましょう。

もちろん、この種類の祈りを学ぶには時間がかかるでしょう。この祈りを学んでいく初めの頃は、あまり多くの言葉、多くの考えを求めないようにしましょう。私たちの霊は落ち着き、静まっていなくてはいけません。今の自分の状態をそのまま主のところへ持ち込んで、主の御顔の光の中で、その状態について考えればよいのです。あるいは、現在の状況など忘れ、主の御前で御言葉をじっくり噛みしめてもかまいません。または、主の御前に生きて、自分の霊で触れようと試みるだけでもよいのです。実際のところ、私たちが神に会うために進んでいくのでなく、神が私たちが来るのを持っておられます。そして、その神の臨在の中で私たちは何かをつかみ、神の御心に触れます。最大の知恵は、まさに、ここから来るのです。これによって、私たちの望みは神の願いの中に入り、私たちの思いは主の心に入ります。そしてそこから、私たちの祈りは主のもとへと昇ってゆきます。

私たちが自分の願いと思いを神に任せると、神ご自身の御心と願いが私たちの中で再生されるようになり、今度はそれが、私たちの願いと考えになってゆきます。この種類の祈りは、最も価値があり、ずっしりと重みがあります。主イエス様が祈りについて言ったことを思い出してみましょう。『だから、こう祈りなさい。天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。』(マタイ6:9~10)。この最後の三つの文章を繰り返し、唱えるだけはいけません。この言葉は、神の御心と願いを明らかにするもので、神の御霊が私たちの心を御許に運ぶとき、私たちの中でも、新たに作り出すべき言葉です。そして、この言葉が私たちの願いと思いになると、それから後、私たちが口にする祈りは、何よりも価値があり、重みのあるものとなります。

神には地上で為すべきことがたくさんあり、多くの場所に手を差し伸べています。では、どうすれば、私たちは自分の気持ちと考えに沿った祈りができるのでしょう?私たちは神に近づいて、主が為そうとしていることを心に刻み込んでいただくべきであり、それによって、私たち自身が深いうめきによって、とりなすことができるようになります。主に近づいて、福音を広めると言う御心を、神に注ぎ込んでいただくと、これは直ちに私たちにとっての重荷となります。そして、その背負った重荷のままに祈るとき、私たちのため息の中にこそ、神の御心が表れているような気持になるでしょう。主は私たちの中に、様々な願いを入れ、様々な重荷を作り出するかもしれません。しかし、何であれ、ある願いや重荷が心の中に生まれるとき、その人は主の御心を自分自身の願いとして、それに即した祈りをすることができます。ダニエルの場合、神の御前に来て、彼はあることにふれました。その時、彼は深いうめきとともに、そのことを祈りとして口に出しました。このような祈りこそ、何よりも貴重で、意味のあるものです。このような祈りこそが、神の御名をあがめ、神の御国を来たらせ、そして、みこころが天で広く行なわれるように地でも広がっていく源となります。

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