2016年12月21日水曜日

神前有能[第1日]なぜ祈るのか?この不可思議

ウォッチマン・ニー
神前有能
第1部、だから、こう祈りなさい。

第1日
なぜ祈るのか?この不可思議

『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。』マタイ7:7

祈りとは霊的な世界において、最もすばらしい行動であり、もっとも不可思議な行いでもあります。祈りとは謎です。そして、祈りについて、いくつかの質問を投げかけて、その答えをじっくり考えてみれば、今よりなお、祈りを取り巻く不思議な性質を理解できるはずです。それは、簡単に答えが見つかる質問ではないからです。しかし、ここで言いたいのは、祈りの不思議さは人にはとうてい理解できないとか、祈りに関わる様々な問題は説明できるものではないといったことではありません。ただ、祈りについて本当によく分かっている人は一握りしかいないことを示しているだけです。こう考えてみると、祈りの中で、神のために多くを為すことができるのは限られた人たちだけです。祈りの力は、どれだけ多く祈るかではなく、私たちの祈りがどれだけ、祈りの原理に沿っているかというところにあります。このような祈りだけに、本当の価値があります。

初めに答えていただきたい質問は、なぜ祈るのでしょう?祈りの効能とは何でしょう?神は全能なうえに、全知なるお方ではなかったでしょうか?ではなぜ、人が祈るのを待ってから、働きを始められるのでしょう?すべてご存知のはずなのに、願っていることを話さなければならないのは何故でしょう(ピリピ4.6)?全能の神はどうして、直接、働かれないのでしょう?なぜ、私たちの祈りを必要とされるのでしょうか?求めた者だけが与えられ、捜した人だけが見つけ、叩いたものだけが中に入れる(マタイ7:7)のは、何故なのでしょう?なぜ神は、『あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです』(ヤコブ4:2)などと言われるのでしょう?

この質問と同時に、私たちはこう問いかけなくてはいけません。祈りは神の御心と相反するものだろうか?祈りと義の関係はどのようなものだろう?

神が決して、ご自身の御心に反することをしないと、私たちは知っています。扉を開けることが神の御心なら、なぜ御自身で開けずに、私たちが叩くまで待たれるのでしょう?主は、人に戸を叩くよう求めたりせずに、御心のままに、自分から、扉を開けたらよいのではないでしょうか?全知なる神は、扉を開けなければ、私たちが中に入れないことはご存知です。ではなぜ、私たちが叩くまで待ってから、開かなければならないのでしょう?扉が開けるためにあり、扉を開けることが神の御心にかなうなら、また、それだけでなく、開けてもらわなければ人は中に入れないことをご存知だったら、なぜ神は私たちが叩くのを待つのでしょう?私たちが扉を叩くことで、神は何か得るところでもあるのでしょうか?

まだ続けて、尋ねるべき質問があります。神の御心は扉を開けることにあり、また、扉を開けることが義にかなっているとしたら、神は私たちが叩かなくても、扉を開けるでしょうか?それとも、神は、御心と義をあえて行わないまま、私たちの祈りを待つでしょうか。神は本当に、扉を開けたいという御心を、私たちが叩かないために、抑えこんだままにしておくでしょうか。

そうなると、神の御心を、私たちが制限することになるのでしょうか?そんな神が本当に全能なのでしょうか?神が全能なら、なぜご自身から扉を開けず、私たちが叩くまで待たなければならないのでしょうか?神は本当に、ご自身の御心を達成することができるのでしょうか?もし、本当にできるなら、なぜ扉を開けること(神の御心)は、私たちが叩くこと(人の祈り)に、支配されるのでしょう?

この全ての質問を通して、祈りが大きな神秘であることが分かってきます。ここに神の働きの原理を見るからです。それは、神の人々が先に祈らなければ、神が立ち上がって働くことはできない、神の御心は、ご自身に属する人々の祈りを通してのみ実現される、そして、信者の祈りが御心を達成するものである、という原理です。神は、一人だけで御心を満たすことはしません。神の人たちが、共に働きたいという思いを祈りの中で示して、はじめて働かれます。

このように考えてみると、祈りとは信者たちが神とともに働くという作業に他ならない、と言うことができます。祈りとは信者たちの思いが、神の御心とひとつになることです。信者が地上で口に出す祈りは、天の主の御心を言葉にしているに過ぎません。祈りとは、神に願いを伝えて、自分の要求を聞き入れ、個人的な願いを満たしてもらうよう求めることではありません。祈りとは、御心を変えて、主が望んでいないことをしてくださいと迫るものでもないのです。そうではなく、祈りとはただ、神の御心を信者の口を通して語ることです。神の前で信者は、主の御心がなりますようにと、祈りの中で願うのです。

祈りによって、神が決めたことが覆ったりはしません。祈りは何も変えません。主が既に定めたことを成し遂げるだけです。しかし、祈りをしないことは、ある変化をきたします。なぜなら、人が祈りをとおして神と共に働かないと、そのために多くの問題の解決が宙に浮いてしまうからです。

『まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです(マタイ18:18)。』私たちがよく知っている主の御言葉ですが、これが祈りについて語っていることに気を付けてください。そして、後にすぐ、キリストの次の言葉が続きます、『まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。(19節)。』

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