2024年12月30日月曜日

オースティン・スパークス、『キリストの学校』、第六章 開かれた天

キリストの学校
T・オースティン-スパークス著
The School of Christ by T. Austin-Sparks 

第六章 開かれた天

私たちは、これまでの瞑想の中で、キリストの学校にいることの意味を考えるように導かれてきました。この学校では、すべての学び、すべての指導、すべての訓練が、キリストを知ること、キリストを学ぶこと、キリストについて学ぶのではなく、キリストを学ぶことに向けられています。ものごとを平易、かつ、明確にしようとするときに、これはもっとも難しい点です。私たちは、キリストに関する多くのことがらを教義、教えとして取り上げることはできますが、それは私たちが求めていることではありません。それは、主が求めているものとは全く違います。求められているのはキリストご自身です。キリストご自身が、すべての真理、すべてのいのちの生きた個人的な具現化、人格化であって、主の私たちに対する目的と願いは、さまざまな側面から見た真理を知るようになることではなく、ある一人のお方、そのお方の生きた人格を、生きたかたちで知ることであり、また、その人格が私たちに伝えられ、私たちがその人格へと組み込まれることによって、すべての真理が、単なる理論的、方法論的な真理ではなく、生きた真理となることにあります。

2024年11月1日金曜日

『神への渇き』、第十章―生活の聖礼典(サクラメント)終章

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第十章―生活の聖礼典(サクラメント)

だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。――第一コリント一〇・三一

心の平和に到達しようとするキリスト者が出会う最大の邪魔ものの一つは、われわれの生活を聖と俗との二面に分ける、あの広く行われている習慣である。この二つの面は別々に存在し、道徳的にも霊的にも両立出来ないものと考えられている。そして、われわれは生活の必要上その一方から他方へ常に行ったり来たりしているので、私たちの生活は破綻してしまい、統一した生活が出来なくなって、分裂した生活を営むようになりやすい。

2024年10月24日木曜日

『神への渇き』、第九章―柔和と魂の安息

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第九章―柔和と魂の安息

柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。――マタイ五・五

山上の垂訓をひっくり返しにして、「これが人類の姿だ」と言ったら、それは人類の真相をかなり正確に伝えたものと言っていいだろう。なぜなら、山上の垂訓で説かれているいろいろな徳目の正反対が、人間の生活および行為のいちじるしい特徴になっているからである。

2024年10月20日日曜日

『神への渇き』、第八章―創造主と被造物との正しい関係の回復

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第八章―創造主と被造物との正しい関係の回復

神よ、みずからを天よりも高くし、みさかえを全地の上にあげてください。――詩篇五七・五

自然界の秩序が正しい関係に基づいていることは明白なる事実である。つまり、万物が調和して存在するためには、おのおのの物がお互いの関係において正しい場所におかれていなければならないのである。人間の生活もやはりそうである。

2024年9月17日火曜日

『神への渇き』、第七章―魂の凝視

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第七章―魂の凝視

信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。――ヘブルー二・二

第六章で述べたあの知的な常識人がはじめて聖書を読むようになったと仮定してみよう。彼はその内容については何の予備知識もなしに、聖書に近づく。彼は全然偏見を持っていない、別に何かを証明しようとするのでもなく、また弁護しようとするのでもない。

2024年8月29日木曜日

『神への渇き』、第六章―語る声

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第六章―語る声

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。――ヨハネ一・一

キリスト教の真理について教えられたことのない知的な常識人が右の聖句に出会った場合、彼はおそらく、ヨハネは、語ること、つまり自己の思いを他の者に伝えることが神の性質である、と教えるつもりだったのだ、と結論することだろう。そして、その結論は正しいと言えよう。言葉は思想を表わす手段である。それが永遠なる御子に適用されるとき、自己表現は神性に内在するものであり、神は永遠に御自身を被造物に向かって語ろうとしておられるという信仰にわれわれは導かれる。聖書全体がこの思想を支持している。神は常に語っておられる。神は語られた、ではない、神は語りつつあるのだ。神はその御性質のゆえに絶えず明瞭に語っておられる。神は世界をその語る声をもって満たしておられるのである。

2024年8月28日水曜日

オースティン・スパークス、『キリストの学校』、第五章 いのちの光

キリストの学校
T・オースティン-スパークス著
The School of Christ by T. Austin-Sparks 

第五章 いのちの光

『すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現われた。その音は大水のとどろきのようであって、地はその栄光で輝いた。主の栄光が東向きの門を通って宮にはいって来た。霊は私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。なんと、主の栄光は神殿に満ちていた。』(エゼキエル43・2、4~5)

『彼は私を、北の門を通って神殿の前に連れて行った。私が見ると、なんと、主の栄光が主の神殿に満ちていた。そこで、私はひれ伏した。』(エゼキエル44・4)

2024年8月14日水曜日

『神への渇き』、第五章―宇宙における神の内在

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第五章―宇宙における神の内在

わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。
わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。
――詩篇一三九・七

すべてキリスト教の教えの中には、ある種の基本的な真理が含まれている。それは時には隠されており、また積極的に主張されるよりもむしろ当然のこととして前提されているが、しかもあらゆる真理にとって必要なのである。それはちょうど、原色が完成された絵画にとって必要であるのに似ている。このような基本的真理が神の内在ということである。

2024年7月27日土曜日

『神への渇き』、第四章―神を捉えること

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第四章―神を捉えること

味わい、これを見つめよ。――詩篇三四・八

二十五年以上も前に、神に対する普通人の持つ信仰の推論的性格に注意を換起したのは、インドのキャノン・ホウムズであった。たいていの人々にとっては、神は推論であって、実在ではない。つまり、神は彼らが十分だと考える証拠から演釈されたものではあるが、個人によって親しく知られることはないのである。彼らは言う、「神はあるにちがいない、だからわれわれは神があると信ずるのだ」これはまだよい方で、そこまですら行っていない人たちもいる。彼は神については噂で知っているだけなのだ。彼らは自分で考えぬく労をとることなく、他の人たちから神様の話を聞き、神に対する信仰を、彼らの全信条を形成しているいろいろながらくたと一緒に、心の奥の方に投げ込んだままでいる。さらに他の人々にとっては、神は一つの理想、すなわち真や善や美の別名にすぎない。あるいは、神は法則とか生命とか、存在現象の背後にある創造的衝動とかに考えられている。

2024年7月7日日曜日

『神への渇き』、第三章―へだての幕を取り除くこと

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第三章―へだての幕を取り除くこと

兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、――ヘブル一〇・一九

教父たちの有名な言葉の中でも、アウグスチヌスの次の言葉ほどよく知られているものはない。

「なんじは我らをなんじのために造りたまいたれば、われらの心はなんじの中に憩うまでは休息(やすみ)を得ざるなり」

2024年7月5日金曜日

オースティン・スパークス、『キリストの学校』、第四章 神の家

キリストの学校
T・オースティン-スパークス著
The School of Christ by T. Austin-Sparks 

第四章 神の家

エゼキエル
40:2 すなわち、神々しい幻のうちに、私はイスラエルの地へ連れて行かれ、非常に高い山の上に降ろされた。その南のほうに町が建てられているようであった。
40:3 主が私をそこに連れて行かれると、そこに、ひとりの人がいた。その姿は青銅でできているようであり、その手に麻のひもと測りざおとを持って門のところに立っていた。
40:4 その人は私に話しかけた。「人の子よ。あなたの目で見、耳で聞き、わたしがあなたに見せるすべての事を心に留めよ。わたしがあなたを連れて来たのは、あなたにこれを見せるためだ。あなたが見ることをみな、イスラエルの家に告げよ。」

2024年6月28日金曜日

『神への渇き』、第二章―何も持たない幸福

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第二章―何も持たない幸福

こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。――マタイ五・三

主なる神は地上に人間を造られる前に、まずその準備として、人間の生存と歓びのために役立ち、また人間を楽しませる様々なものに満ちた世界を創造された。創世記の天地創造の物語では、それらのものはただ単に「物」と呼ばれている。それらのものは人間が使うために造られたのであるが、それらは常に人間の外にあり、人間に奉仕すべきものであった。人間の心の深いところには一つの宮があって、そこには神以外の何者も住む資格はなかった。人間の内には神がおられ、外には、神が人間に雨のように注がれた無数の贈物があった。

2024年6月23日日曜日

『神への渇き』、第一章―神を慕い求めること

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer

第一章 神を慕い求めること

わたしの魂はあなたにすがりつき、
あなたの右の手はわたしをささえられる。――詩篇六三・八

キリスト教神学は先行的恩寵の教義を説いている。それは簡単に言うと、人間が神を求める前に、まず神が人間を求められたに違いないという意味である。

罪ある人間が神について正しく知る前に、人間の心の中に神による教化のわざが行われたにちがいない。それはたとえ不完全であっても真実のわざであった。それは、つづいて人の心の中に生じる、希求や探求や祈禱のかくれた原因となった。

2024年6月20日木曜日

『神への渇き』、序文、はしがき

神への渇き
A・W・トウザー著
柳生直行訳、1958年、いのちのことば社
The Pursuit of God, A. W. Tozer


目次

第三章 へだての幕を取り除くこと
第四章 神を捉えること
第五章 宇宙における神の内在
第六章 語る声
第七章 魂の凝視
第八章 創造主と被造物の正しい関係の回復
第九章 柔和と魂の安息
第十章 生活の聖礼典
あとがき

2024年6月12日水曜日

オースティン・スパークス、『キリストの学校』、第三章 啓示による学び

キリストの学校
T・オースティン-スパークス著
The School of Christ by T. Austin-Sparks 

第三章 啓示による学び

『すなわち、神々しい幻のうちに、私はイスラエルの地へ連れて行かれ、非常に高い山の上に降ろされた。その南のほうに町が建てられているようであった。主が私をそこに連れて行かれると、そこに、ひとりの人がいた。その姿は青銅でできているようであり、その手に麻のひもと測りざおとを持って門のところに立っていた。その人は私に話しかけた。「人の子よ。あなたの目で見、耳で聞き、わたしがあなたに見せるすべての事を心に留めよ。わたしがあなたを連れて来たのは、あなたにこれを見せるためだ。あなたが見ることをみな、イスラエルの家に告げよ。」(エゼキエル40・2~4)』

2024年5月19日日曜日

オースティン・スパークス、『キリストの学校』、第二章 真実を学ぶ

キリストの学校
T・オースティン-スパークス著
The School of Christ by T Austin-Sparks

第二章 真実を学ぶ

『そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。』(ヨハネ8・31~36)

2024年4月6日土曜日

オースティン・スパークス、『キリストの学校』、第一章 霊的な教育の土台

セオドア・オースティン・スパークス『キリストの学校
The School of Christ by T Austin-Sparks

第一章 霊的な教育の土台


エゼキエル
40:2 すなわち、神々しい幻のうちに、私はイスラエルの地へ連れて行かれ、非常に高い山の上に降ろされた。その南のほうに町が建てられているようであった。
40:3 主が私をそこに連れて行かれると、そこに、ひとりの人がいた。その姿は青銅でできているようであり、その手に麻のひもと測りざおとを持って門のところに立っていた。

2024年4月5日金曜日

オースティン・スパークス、『キリストの学校』、序文

セオドア・オースティン・スパークス『キリストの学校』
The School of Christ by T Austin-Sparks

著者からのお願い

ただで受けたものは、ただで与えるべきであり、利益を得るために売ってはならない、また、メッセージは一語一句、自分が語ったままに伝えて欲しいというT・オースティン・スパークスの要望を守るため、このメッセージを他の人たちと共有する場合は、彼の願いを尊重して、無償で配布するようにお願いします。代金を受け取ること、料金を課すこと(配布のために必要な経費は除きます)はしないでください。また、この一文を必ず含めてください。